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コメット・シンバル
「普段、テレビなんて見ないんだけど……」
車通りの少ない裏道で、二人並んで、自転車を押して歩きながら。
「その日、お父さんが帰ってくるのが早くて。それで、CMで流れたの」
カラカラと、チェーンの音が反響するほど静かな通りで、声を潜めて。彼女の家庭事情には詳しくないから、僕は適当に相づちをうって続きを促した。
「いい曲だな……って。はじめ思ったのはそれくらいで。ただ、調べたら、プロモーションビデオそのまま、ネットで見つかったから」
パソコンは初めから有ったんだよ、だなんて、まるで言い訳みたいに。シロクマさんは、苦笑いを空に浮かべた。
「でね。早速聞いてみて……あれ、こんなおとなしい曲だったかな、って思って」
だけど。抑え気味の声を途切れさせたかと思えば、意味ありげに僕を見て、
「二番、ドラムの人が映ったって思ったら、こう、わーって!」
一瞬だけ路地裏に声がこだまするくらい、大袈裟な調子でそう言った。
本当は、何か身ぶりも添えたかったのだろう。両ハンドルを握っているせいで、結果、マフラーでモコモコの肩を尖らせただけ。
だけど、イメージは分かる。きっと、ドラムの人がスティックを振り上げる、あの仕草だ。
――自販機の横で聞かせてもらった音楽からは、どれだけ近づいて聞いても、ドラムの音しか聞こえなかった。
何かのアプリで抽出したという。スマホも、それを自腹で維持するためのアルバイトも、その曲がきっかけだと言っていた。
『変だよね?』と尋ねられて、うまくはぐらかせた自信はあまりない。
共感以前に理解が追いつかないような熱意に、ただただ圧倒されるばかりで。なぜだろう、その時は寂しさに似た感傷が大きかった。
気が合いそうだとか、そんな期待が、壊れた気がしていた。
「――何回聞いても飽きなくて。よかったら聞いてみる? CD貸してあげるよ!」
だけど、聞けば聞くほどに、熱意のきっかけに遡るほどに。シロクマさんを突き動かしたのは、僕にも分かるほど単純な、ただの好感や憧れなのだと分かってくる。ちょうど一時間前まで、好きなゲームのキャラクターを友達と語り合っていた僕と、変わりない。
きっとどこか、ホッとしていた。そして普通の話を嬉々として語ってくれる様子が、なんだろう、やけにくすぐったい。
思っていたより眩しい笑顔に、思わず目を逸らしそうになるほどに。ああ、ウチにCDを聞く機械があったかどうかなんて言い出しにくい雰囲気だ。
だから、ずっと、こんな風に。
途中から、もしかしたら初めから、会話というには一方的なやり取りが続いたのだけど。今まで思いもしなかったほど楽しげに語るシロクマさんが、眩しくて、羨ましくて、何故だかこっちまで楽しくて。
なぜだろう。僕らは今、ここにいる、だなんて。
自分自身のことなのに、やけにこの瞬間にリアリティを感じていた。その矛盾した感慨がまた、余計に『今』を思わせる。
そんな、ありきたりな、特別な夜。このままずっと話を聞いていたい、だなんて思っていたほどなんだけど。
「……と。ごめんね、わざわざお店まで来てくれて、お話まで聞いてもらって」
シロクマさんは、どうだったのだろう。僕に分かるのは、この時間もそろそろ終わりだということだ。
「送ってくれてありがとう。私のうち、すぐそこだから」
足を止めて、シロクマさんは視線を道の先へと向ける。細い路地から繋がる大通りの向こうに、県営の団地が並び立っていた。
「今日はありがと。帰り道、気を付けてね」
そして、改めて僕を見るシロクマさんが、いつの間にか、いつも見るような苦笑いを浮かべていた。
急に気まずくなったか、それとも。先んじて僕に手を振って見せたりする。
見覚えのある、ぎこちない距離。そして。
何か少しでも、きっかけに恵まれたならば。そう思ったのが、前にこうして手を振り合った時だった。
「……今さらだけど。その手ってさ」
人差し指に咲いた、赤い絆創膏を見た時だった。今日もまた、少しかわいそうで可愛らしい、きっと同じ種類の物を巻いている。
予想外だっただろうか、わずかな沈黙。
白い息を携えた微笑みは、ついさっきまでの楽しそうな、眩しげな方。
「うん。スティック、買っちゃったの」
掲げた手のひらを見せつけるように宙空に止めて、屈託もなく笑うから。
「さっき言ってた曲?」
平静を装って、必要以上の笑顔を繕って、僕は用意していた言葉を告げる。
「うん。そうだよ」
一度流した話題だからか、素っ気なく頷いてくる。
だけど表情に、何か期待のようなソワソワした色が見えるのは、僕の方がそう思っているからだろうか。
「よかったらさ、今度本当にそれ貸してよ」
ただの建前では有りませんようにと、期待を胸の奥に押し止めて、ただ素っ気ない態度のお返しをする。
些細なきっかけが、次に繋がればと。
「いいよ。今取ってきた方がいい?」
思っていたよりもずっと、いい意味で、呆気なく。シロクマさんは二つ返事で頷いた。
だから僕も素直に頷き返せばよかったんだけど。
「もう遅いからさすがに悪いよ。また今度……お店の終わりとかでよかったら僕から借りに行くよ?」
それなら、さっきの時点で話を切り出しておけばよかった。それから考えた分だけ、もう少し、踏み込んでみせる。
きっと、ちょっと不自然だ。でも、次だけじゃ途切れちゃいそうだから。祈る気持ちはひた隠しに、何事もないかのように尋ねてみる。
「ええっ……そんなの逆に悪いよ、それに時間通りに終わらないかもしれないし」
「いいよ、スーパーならウチから近いし、終わったら連絡でもくれたらさ」
もう安全圏は踏み越えてしまっている。ダメならもっと気まずくなるかもしれないけれど。
「せっかくスマホ持ってるんだからさ。シロクマさんのID教えてよ」
息苦しいほどの焦燥感に思わず目を逸らしながらも、伝える。明るい場所なら耳まで真っ赤に見えるんじゃないかと思うほど、自分自身の熱っぽさを感じていた。
「……えっと」
そんなだから。
「シロクマさん……って、私のこと?」
平静なんて何一つ装えていなかったことを、その言葉で思い知る。脳裏で組み立てていた話題が崩れ落ちる音が聞こえた気がした。
心臓が早鐘を打つ。かじかんでいた指先が熱を帯びて焦がれるように痛い。どうしよう、どうしようという思いばかりが空回る沈黙が、
不意に、僕のものじゃない笑い声にかき消される。
「ふふふ……っ。何それ……カワイイ!」
まさか、シロクマさんが笑う。掲げていた手で口元を抑え、それでも笑みを隠しきれない口角を覗かせながら、潜めた声を楽しげに震えさせる。
仕方なく、僕も笑う。苦笑いで、まともに目も合わせられないけれど。
潜め声で微笑むシロクマさんが、楽しそうで、眩しくて。余計に頬が熱くなる。
そうやって、しばらく。きっと僕ばっかりが気まずい笑い合いを経て。
「……ふふっ。いいよ分かった。でも私まだ何も作ってないから先に教えてよ。後で送るから」
みんなには秘密だよ。そう言ってはにかむシロクマさんが、やっぱりどこか、くすぐったかった。
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