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ため息は、
『なんか冷たいもの買ってきて』
だとかメッセージが届いたから、どこに、と聞けば学校のプールにいるという。6月初頭、日曜日。きっと梅雨前最後の晴れ空の元。
「それで、きちょーな休日に何してるのさ?」
「見て分かんないの? ただの便利屋」
私の問いかけに目もくれないまま、ぶっきらぼうな低い声。いや、分かっているから聞いているんだと心のなかで苦笑いしながら歩み寄る。
休日、空のプールで、なぜか制服姿にデッキブラシ片手の彼をプールサイドから眺めてやる。見た感じ、水槽の8割くらいがキレイになっていて、この暑いなかゴクローなことだと思う。
「あんま無理しない方がいいよー。休憩しないの?」
「いっそ終わってから」
「そう? じゃあ私、先に休憩しとくねー」
そして返事がつれなかったから、私は一人、回れ右。ちょうどテキトーなビーチパラソルがあったからそこに避難しておく。この暑いなか歩いてきたからお疲れ様なんだ。
だから。私は持参したビニール袋を傍らにおいてまさぐる。そして取り出したるは、清涼感を絵に書いたようなガラスの瓶だった。
冷えきったラムネ。夏休みのアニメとかアニメの夏休みとかで見る田舎の必需品で、その割に縁日以外で見ないから探してみたら近所のスーパーで大売り出しされてた安物だ。
上側のビニールを割けば、分かりやすいほど昔ながらのラムネ瓶。栓を上から叩けば中のビー玉が落ちて、ほら、すぐに泡があふれてくるから、こぼさないように口にする。
そして。夏を思わせる日差しも、歩き疲れて参る蒸し暑さも。
ビニールがうまく割けなかったことも、吹き零れた炭酸が結局手を濡らしたことも。置いた瓶が砂を噛むような微妙な音をたてたことも。プールサイドの掃除がまだなのに気付かず床に座ってしまったことも。
プール自体の掃除も傍目に適当なことも、とはいえ個人が受け持つ仕事じゃないだろうと思うことも、たぶんいつものように流されて請け負ったろうことも、私にはそんな優しさ見せてくれたことがないことも、全部。
口に含んだ炭酸と一緒に、弾けて消える。
夏を先取りした、刺激的な爽快感。それはもう爽やかで、言葉がでないほどだった。
涙が出そうなほどだった。思っていたより炭酸が強かった上、喉に引っ掻けて噎せてしまっていた。人前じゃなければうずくまっていたかもしれないほどで。
「――あー疲れたマジ疲れた」
そんな私の受難なんて知るよしもなく、掃除を切り上げたらしい彼がフラりと私の隣へ。そしてジャリっと腰を下ろしたかと思えば、空を見上げて何やらわからない声を伸ばす。
普段ならお疲れ様の一声でもかけたかもしれないけれど、あいにく、今の私はそれどころじゃない。口元を押さえて目を向けてみれば、ややあってから、めんどくさそうな視線が返ってきた。
そして。
「……ばーか」
思わずムッとするような一言。悲しいかな、涙目でにらむことしかできなかった。
「っていうか冷たいのは? もしかして俺の分ないの?」
そして答えられないのを分かってるだろうに、気遣うそぶりも見せずに続くから、私は空いた手で明後日の方を指差す。彼がつられて見遣る間に、残ったラムネを首筋に突きつけてやった。
声もなく竦み上がる仕草が思いの外かわいらしくて、私は思わず苦笑い。それから、余計なことを言われる前に、自分のラムネを、今度は慎重に口に含む。それを期にしばらく、シュワシュワと心地いい音に乗って甘い香りがプールサイドに弾けた。
それで掃除はどんな感じ? だなんて聞くくらいのつもりでプールの方に目を向ける。すると、炭酸に意地悪されて気づかなかったけど、ざあざあと、ずいぶん目立つ音が響いていたことに気がついた。
思わず近寄って見下ろした先。どこから引っ張ってきたのかわからないホースから、プールの水槽に水が足され始めていた。
「来るのが遅いから全部片付いたんですけどお」
後ろ隣で、わざとらしい声。いや、こんな適当でいいのかとか、手伝わせるつもりだったのか、とか。抗議のつもりで振り向いてみるも、空に向けてラムネが弾ける音がするだけ。
改めてプールを眺める。真昼の陽をユラユラと散らせるみなもが涼しげだった。
「塩素って先だっけ? あとだっけ?」
続く言葉は、どこか不安げな。横目で見れば、底の方を見下ろしながらネクタイを緩める彼の横顔。
そう、休日なのに制服。それも襟元を崩すだけ、はしたないことなんてひとつもないのだけど、ちょっとだけ覗く鎖骨のラインが思ったより男の子してて、思わず目を逸らしてしまう。
その先、プールに揺らめくスカートの裾が気になって抑えた、その水底。泡になって溶けていく、ラムネのような影があった。
それはもう本当に、今口にしたばかりのラムネにも似ていて、
「……シュワシュワして気持ちよさそう」
思わずこぼれた独り言は、ただの本音だった。
「だろー…………っ」
そして、素っ気ないだけのはずの返答に、ちょっとだけ混じったその違和感に。跳ねるようなリズムに、私が振り向いたのと、
揺れる視界の端から端へ、彼が駆け抜けたのは、ほぼ同時だった。
そのまま、ふわり。
宙を翔ける。
それから私が振り向き直すのと、彼が飛んだ方から水しぶきが上がるのもほぼ同時で、昼の日差しにキラキラきらめく飛沫が冷たくて、水音がけたたましくて、言葉もでなかった。
「――あー…………っ、気持ちいぃ……」
ややあって水面から顔を出した彼が、まるで感慨深げに告げる。まさか制服のまま、塩素のラムネも溶けきらないままのプールに飛び込んでいた。
それから気持ちよさげに間延びした声を交えて水面を、ゆらり。それはもう、羨ましくなるくらいに涼しげに浮かんで見せたあと、
「…………来ないの?」
きっと余計な色合いなんてない透明な問いかけを、私に向けて、まっすぐに。
「やだよ、私そんなこどもじゃありませんのでー」
だから、余計な思いはひた隠しにして、単純に、皮肉に見せて。
えー、だとか、抗議する声。そして。
「俺、そんな大人になりたくねー」
破顔一笑、そして溶けるように彼はプールに潜る。
今一つ噛み合わない会話、キラキラ跳ねる水の音。私はプールに背を向けて、なんとなしに空を見上げた。
薄い雲が流れる、まだ、夏には遠い晴れ空。それでも汗ばむ陽気が目にも眩しくて、人知れずそっと、私は目を閉じた。
そんな大人になりたくない。
皮肉か、それともただの言葉のあやか。
彼の声は、私の心に微かに、揺らぎをたてた。
例えばいつか、今日のことを思い出すことがあったとして。あの頃は若かった、だとか。そんなことを思う人にはなりたくなくて。
それは、早く大人になりたい訳じゃなく、今を子どもと思いたくない訳でもなく。
ただ、違う自分になりたくない。これからも、これまでも同じに、比べたりなんてしたくないだけで。
甘く弾ける炭酸が二酸化炭素なら。
ため息なんて、みなもに沈めて、ラムネみたいに泡になってしまえ。
セミの声すら聞こえない夏空の片隅。きっと砂利にバランスを崩したのだろう、空の瓶にビー玉が揺れる透明な音が聞こえた、気がした。私は、かかとの後ろに広がる空色の水面に向けて、両手を広げて、仰向けに。
目を閉じたまま。
笑顔で。
ユラユラとため息を浮かべる、そんな数秒後を思い描いた。
「で、なんでわざわざ人のいる方に落ちてくるかな……」
「だってまだ真後ろにいるだなんて思わなかったんだもん」
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