彗星降る夜

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「なにそれ、すげえ甘い匂いじゃん。南国みたいな。」  新しく買ってきた紅茶とわかってくれたようで、嬉しくなってこくりと頷く。 「リュンと違って紅茶の入れ甲斐があるねぇ。」 「あいつは紅茶が酢醤油に変わってたって気付かんだろ。」  天文馬鹿、なのだ。特に月にかける情熱は空恐ろしい。だから、その昔誰かがリュンと名付けたのが定着した。Luneはフランス語で月を表すが、それはルナと同じ語源だ。  ルナ、ルナティック、狂気。そう言えばリュンの居場所をはっきり把握していない、とふと思い当たる。 「リュンって今、アメリカのどこだっけ?ニューヨークとか?」  カップに口をつけていたアイは、漫画みたいにきつく力を込めた目で私をぎろりと睨む。 「あのさあ、おまえそういうこと俺に訊くの、ちょっとは躊躇しろよ。」  それからもう一口紅茶を啜って、ワシントンDCだよ、と教えてくれた。そうだ、ワシントンDC。ホワイトハウスのあるアメリカの首都だという初歩的な知識しかない。  私にとってリュンはいるかいないか、百かゼロなので、場所にはあまり関心がないのだ、とアイに説明しようかと思ったが、やめた。アイが言いたかったのはそういうことではないだろうから。  私、このまま行けるところまで行くことに決めたの。いつかリュンに宣言したとき、リュンは微笑んで頷いた。何かを少しだけ諦めてしまったような微笑みだった。  同じことをさっきアイに言ってみたら、アイは苦しそうに眉を寄せて羽を広げるフェニックスに顔をうずめた。そんなアイの表情は、私を落ち着かない気持ちにさせる。  ライチの香りの紅茶を飲み干したら、アイは帰ってゆくだろう。私もベッドのシーツを替えてカップを片付けたら、鍵をかけて彗星降る夜へと出ていく。リュンを待つ暮らしへ。ほんとうのさいわい。私はそのことに満足している。
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