epilogue

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「律…なんかあった?」 膝に青あざがあり、腕にもかすり傷ができている。どちらも新しい。 「だって…」 「なに」 誰かに危ない目に遭わせられたのじゃないかと心配になる。 「ニューラルネットワークに関するプログラミングコードの講演会があるって聞いたから…茨城までひとりで行った」 ばつが悪そうな、まるきり叱られた子どもの顔をする。 「にゅ…、なにそれ」 聞き取れなかった。 「うちの業界で話題になっている研究なんだ」 「…ったく。だったら俺がいっしょに行ったのに」 絶対開始三分でうたた寝したけどな。 目が見えない人は、行ったことのない場所を訪れる際、ほとんどの場合介助者を同行する。それなのにこいつは、好奇心でひとりでどこにでも行く。大学のときも、短期の海外留学をするしないで揉めてけんかした。律は結局、俺をふりきって飛び立って行った。 「史緒、その日出張だったし」 「…ばか。勝手で考えなしなのは律だよ」 そのくせ、いとおしくてたまらなくなって、その青あざとすり傷に唇をつけた。律はこらえきれなくなったようなため息をこぼす。 律のベッドのヘッドボードには、あの日帰りがけに拾い集めた貝がらが瓶に入れて飾ってある。 海で撮った画像を送ってほしいと言われたときは正直驚いたし、ためらった。すると律は、「俺は見えないけど、史緒の目で見て、撮った写真を持っていたいんだよ」、そう言った。 海や空の写真をプリントアウトして、それぞれの自室の壁に貼った。それをながめながら、必死こいて受験勉強をしたっけ。 それから、波の音の録音もした。いざ再生してみたら、風の音と周囲のざわめきしか録れていなかった。それでも、ふたりでよく繰り返し聴いた。俺の家の、畳の上の軋むパイプベッドで、裸で。 「…律」 「ん…」 「入るよ」 なめらかな下腹がぴくりと反応する。 「ふみ…」 律のいちばん奥、俺しか知らない柔らかな部分に身を沈めていく。ふたりだけの夜だ。
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