キス

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キス

図書室はまたしてもひとっこひとり、いない。丸くくりぬいたところからちらちらと火が見える灯油ストーブのまわりは暑く、部屋の隅へ行けば行くほど寒い。 「打消の『ず』は活用形の未然形に接続し、完了の『ぬ』は連用形に接続する」 年が明けた。また音読をして勉強会だ。これのおかげで、二学期の期末テストは成績が上がった。少しだけ、だけど。声に出して読むと、内容が記憶にくっきりと残る。そのとき見ていた風景までも。律の背後の窓から見える校庭、低い本棚、目をふせた律の睫毛の影。 「したがって、ぬ、の上の語が未然形であれば、打消の助動詞…連用形であれば、完了のじょどうし? と判断できる」 律は頬づえをついて聞いている。ブレザーの下に着込んだ紺色のVネックのセーター。きっちりと留められたシャツのボタン、放課後なのにちっとも崩れていないネクタイ。 「けれ、は品詞を見分けづらい代表格である。い、と置き換えられるかどうかで見抜くことができる」 瞬きをした。 「例としては、人こそ多けれ、を、人こそ多い、に変える…」 窓は少しだけ開いている。さっき通りかかった司書(あだ名は桜ちゃんで、白髪のおばあさん)によると、熱気がこもるのを防ぐためだそうだ。「寒いけどがまん、がまん」、そう言いながらまたどこかへ行ってしまった。風が細く入って、律の髪をかすかに揺らす。頭はぼおっとするのに手足の先はひえている。 図書室の閲覧席の机は本やノートを広げるのにじゅうぶんな広さだから、向かい合うとけっこう距離がある。 机に手をついて、乗り出す。手を伸ばした。髪にふれる。頭のいいやつは額が広いっつーけどそのとおりで、おでこは広めだ。さらさらの黒い髪を、指と指のすきまに通しては落とす。 「人が来る」 「こんな辺鄙(へんぴ)なとこ、誰も来ないよ」 なにせうちの学校の図書室だ。はじめてキスした場所。
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