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【3.雪の思い出】
さて、それからしばらくした頃、フォールヒル公爵令息夫妻に子どもができたという噂が駆け巡った。結婚してすぐさま懐妊とは、まさにおめでたが続くビッグカップル。全く、幸せな話題に事欠かない。
しかもフォールヒル公爵は来るべき孫に大喜びで、孫との時間を最優先にすべく、爵位をジェイク殿に継がせようかと言い出しているらしい。
テレンシア嬢のことも「嫁として申し分ない」とべた褒めで、厳格と思われていた宰相がこんな風に人情を見せる様を見て、王宮内はだいぶ面白がっていた。
その頃サラはというと、気まずい思いで毎日を過ごしていた。
エルトンに失礼な態度を取ったことはよく分かっていたし、「不満ですか」と面と向かっていわれ、もう合わす顔がないと思っていた。
エルトンの方も言い過ぎたことを気にしているのか、以前ほど積極的にサラに便りを寄越さない。それがまたサラを宙ぶらりんの気持ちにさせ、落ち着かない日々を送らせるのだった。
しかしついにエルトンから「お話したいことが」と訪問の打診が来て、サラは会いたくない気持ち半分だったが、宙ぶらりんも気持ち悪く会うことにした。
バーレル伯爵家の大応接室に通されたエルトンは、
「先日はすみませんでした」
と開口一番謝った。
サラの方も慌てて「あ、いえ、私も……」と言いかけたが、しかし、サラも聞かないわけにはいかなかった。
「あの、知ってらっしゃる……のよね?」
エルトンは暗い目をして、小さく肯いた。
「ええ、知っています。まだ傷が残っていることも」
「あ……」
サラは手で口元を覆った。
「ひどいわ、知っていて知らない振りをしていたの?」
「すみません、あなたがどこまで引きずっているか分からなかったので」
エルトンは項垂れた。
サラは大きな瞳にめいっぱい涙を溜めてエルトンを見ている。
エルトンは確認するように低い声で言った。
「ジェイク・フォールヒル公爵令息と婚約する一歩手前だったんですよね。昨年の夏くらいでしたか。もう婚約というタイミングでなぜか急に話が立ち消えになったのですね」
サラは被せるように叫んだ。
「ええ、そうよ! なぜか、ね。でも言えるのは、私は彼との婚約を望んでいたということだわ」
エルトンの目が鋭く光った。
「ええ、そうみたいですね。私をこんなに拒絶するほどに。あなたとジェイクのことは何となく噂になりましたけど、誰も大声で言いやしませんでした。最近になってジェイクからその話を直接聞くまでは私も半信半疑でしたしね」
「ジェイク様から!? 何を聞いて?」
サラは軽く悲鳴を上げながら疑り深い目をエルトンに向けた。
「彼とは幼馴染だけど、彼も多くは言いたくないんだろう、表面的なことだけ」
エルトンは淡々と答えた。
「そうでしょうね、私たち当事者も何が起こったかよく分からないんだもの! 夏よ、夏だったわ! 気味が悪くて忘れようがない。本当は今彼の横にいて、彼の子を身籠っているのは私かもしれなかった! 彼の私宛の暖かな手紙だって全て残ってるわ、なんでこんなことになったの!?」
「手紙も、全て……? あなたはちっとも前に進めていないんですね」
エルトンは呻いた。
「何とでも言って頂戴。彼が私との婚約の時にすでにテレンシアさんと恋仲になっていたというのなら、100歩譲ってまだ分かるわ。諦められるかもしれないじゃない、選ばれなかっただけなら。でも、そうじゃなかったんだもの。まだ私は何ともいいようのない靄の中にいる」
サラは首を横に振った。
「何があったというのです? なぜ婚約は立ち消えに」
エルトンは淡々と聞いた。
「何も……! 何もなかったんですわ! 雪が……雪が降ったこと以外!」
「雪?」
「ええ、雪! 夏に!」
「そんなことありましたか」
「ありましたわ!」
あれはちょうど、まさに婚約するという日だった。
あの日、ジェイクは上機嫌だったのだ。
「こんなにとんとん拍子で話が進むなんて、僕たち相性がいいってことかな。嬉しいよ」
サラも照れた笑顔を見せる。
「私も。神様が祝福してくださっているよう。でも私は心が狭いのかも、もう一刻でも早くあなたと婚約したいと、気持ちばっかり急いてしまって、ばかね」
「それは僕も一緒さ! こんなに可愛い人が奥さんになるんだもの」
ジェイクはにこにこしている。
「ね、サラ。今日の婚約の挨拶が終われば、僕たちは晴れて婚約者だ。大々的に宣伝して、皆に祝ってもらおう。明るいニュースをばらまくんだ!」
サラは嬉しさで胸がいっぱいになって大きく肯いた。
バーレル伯爵家の大応接室は、この日のために数日掛けてきれいに整えられていた。
時刻になり、控室から大応接室へと移動するとなると、ジェイクはサラの手を取り「さ、一緒に行こう」と微笑みかけた。
そして意気揚々と大応接室に入ったのに。その途端、とてつもない違和感がサラを襲ったのだった。
大応接室の、とりわけ大きく造った窓の向こう側が、急に暗く、一面灰色に覆われていたのだ。
さっきまでは青い夏空がどこまでも続いてたのに。
灰色? これは雪。横殴りの。
氷の粒と行った方がよかったかもしれない。
コツンコツンとひっきりなしに、猛烈な勢いで窓ガラスを叩いている。
「何……夏なのに雪?」
サラは思わず呟いた。
窓の外では、馬の驚いた嘶きや、それに慌てる人々の悲鳴が聞こえた。
……気味が悪く、不吉な予感がした。
サラが茫然としていると、ジェイクが少し棘のある、忌々しそうな声で
「何だこれ、縁起が悪いなあ」
と呟いた。
その言葉に、その場にいた者が皆そろってハッとしたのである。
気まずい空気が流れた。
誰もが黙っていたが、ジェイクの不満そうな顔を見てバーレル伯爵が言った。
「日を改めましょうか?」
……そして別の日は来なかったのである。
もちろんバーレル伯爵家からも直接または遠回しに何度も尋ねたし、フォールヒル公爵家からもご機嫌伺のような便りは来た。
しかし、ジェイクは興を削がれたのだろう。もう熱烈な便りは、来なかった。
サラは意を決して、何かの茶会の折に、直接ジェイクに「何が気に入らないのか、心変わりしたのか」と聞いた。
しかしジェイクは少し申し訳なさそうな顔で「タイミングが悪かったね」とか言うだけで、はっきりとしたことは言ってくれなかった。
……そして、そのまま、全てが立ち消えになった。
サラは、目の前で真剣な顔で聞いているエルトンに向かって、ぽつんと言った。
「あれは何だったのかと思いますわ……」
そして、哀しそうに続けた。
「夏に雪が降ったことも奇妙ですけど、そんなこと一つで縁が全て壊れ、そして彼は今や別の女性と家族を作っているなんてね」
エルトンは「夏の雹は珍しくない……」と言いかけて、それからすぐに黙った。そういうことではないことを分かっているからだ。
エルトンは何か思案顔で、バーレル伯爵邸を後にした。
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