18人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ
第2話 下流の街からの移住民
大神殿に戻ってきたネフェルカプタハは、まず、神殿の外壁を周って神官の居住区に近い場所にある理髪店に行った。夜のお勤めの前に髪を剃るためだ。
神官は、神域に入る前に体を清浄にすることが決められている。水浴びをして汗を洗い流すのはもちろん、余計な体毛を剃るのも日課の一つ。頭髪も剃らなければならないが、自分では剃れないから、大神殿に併設された理髪店に行くのだ。大神殿以外にも、街には幾つかの小さな神殿があり、それぞれに務める神官たちが何人もいるから、その意味では仕事に事欠かない。
今日も、理髪店の椅子は全部埋まっていて、何人かの客たちが順番を待っていた。半分は神官だが、もう半分は街の住民だ。神官専用の店というわけではなく、手の空いている時間は街の住民も客として迎えている。
神官と街の住民で違うのは、神官は入り口の名簿帳に名前を書くだけで、個人では代金を支払わないということ。剃髪は職務の一環なので、代金は対応した人数分、あとで大神殿から支払われることになっている。それ以外の客は、個人で支払いをしてから剃ってもらうという流れ。
ネフェルカプタハも、入り口の名簿――あとで洗って使い回せるよう平らな白い石が置かれている――に名前を書き、順番待ちの椅子に腰を下ろす。
(夕方のお勤めの始まりまでは、まだ、余裕があるな)
部屋の隅に置かれた水時計の目盛りをちらと見やって、彼は、時間を確かめた。まだ少し、夕方までは余裕がある。身支度を整えたあと、お勤め前に少し、腹ごしらえをするくらいは出来るかもしれない。
理髪店の店員たちは、見事な手さばきで客の頭に青銅製の剃刀を器用に走らせていく。切れ味はそれほど鋭くないのに、よくもまあ、肌を傷つけずに髪だけ巧く処理できるものだと感心する。それもまた、職人の街ならではの技巧の一種と言えるかもしれない。
「神官さん、これから冥界神さまのお勤めですかい」
隣で待っていた街の住人が、ネフェルカプタハが首から下げている標を見て、気さくに話しかけてくる。
このメンフィスの街の大神殿には主神のプタハ神、妻のセクメト女神、息子のネフェルテム神と三柱の神々が祀られていて、それぞれに専属の神官を持っている。主神のプタハ神に仕える者は、独特の襟飾りのようなものを下げているから分かりやすい。
「ああ、日が暮れたら我が主がお目覚めだからな。暑くて汗まみれだし、夏場はお勤め前の身支度が大変だ」
「ははは。そりゃあご苦労さまです。ところで、さいきん下流の町から人が大勢来てるでしょう。」
「ああ、聞いてる。移民だな」
「あいつらも、冥界神さまの神殿に来るんですかい? 他の街ってのは、守護神が違うんでしょう」
「……。」
ふと、ネフェルカプタハはあごに手をやった。
確かに――そうなのだ。
この国では、街ごとに大小さまざまな神殿があり、その土地ごとに、昔ながらの守護神がいる。太陽神なら大抵どの街でも信仰があるが、冥界神プタハはそうではない。今まで考えてもいなかったが、この国の住人だとしても、主神と崇める神は違うはずだ。
(そういや、下流の街、って、どのへんから来てるんだっけな? 守護神が誰なのかは、あとで調べてみるか)
「神官さん、順番ですよ。お次にどうぞ」
呼ばれて、ネフェルカプタハは思考を打ち切った。
「他の街の守護神については、あまり詳しくなくてな。こんど、機会があれば聞いてみるよ」
話しかけてきた街の住民に愛想よく笑いかけて話題を終わらせると、彼は、理髪師が準備して待っている空き席のほうへと歩いていった。
頭を物理的にさっぱりさせたあと、ネフェルカプタハは、居住区を通り抜けて本殿前の中庭の清めの池へと向かった。主神殿に入る前に参拝者たちが水浴びをしたり手足を洗ったりする場所で、今の季節は、川から直接、水が引き込まれている。
神殿内は、汗臭いのも、泥だらけの履物で上がり込むのもご法度なのだ。ここで体を清め、履物をすすぐ。神官も、外から帰ってきた時は必ずここで身を清める決まりだ。
仲間の神官たちに混じって履物を脱ごうとしていた時、ネフェルカプタハは、ふと、参道の辺りで所在なさげにウロウロしている若い娘に気がついた。
(――ん? 何だ、あいつ)
不安そうに辺りを見回して、何かを探しているようだ。
どう見ても、迷っている。だが、この神殿に来るほとんどの人間は、子供の頃からここに通い慣れていて、構造を忘れるはずもない。
ということは、最近引っ越してきたか、別の街から来た観光客か旅人だろうか。
(しょうがねえ、案内してやっか…)
履物を履き直すと、彼は、神官らしい表情を造りながら、その娘に近づいていった。
「失礼、なにかお探しですかな」
「え?! あっ、神官さん。あの…薬師の神様…ネフェルテム神のお社へ、行きたいのですが」
娘は、おどおどした様子で自信なさげに冥界神の息子の御名を口にした。
(なるほど。主神殿と小神殿の入り口が別なのに気づかなかったのか。初心者のやりがちな間違いだな)
心の中ではにやりとしながらも、ネフェルカプタハは、表面上、澄まし顔を続けていた。
「それなら、こちらではないですね。ネフェルテム様のお社の入り口は、反対側の、川に面した場所にあるのです。ご案内しましょう」
「あ…ありがとうございます」
口調ではほっとした様子ながらも、娘はまだ、不安に胸を押しつぶされそうな表情だった。
ネフェルカプタハは、いつもの癖で、相手の全身をざっと眺め回した。
両手は痩せた胸の前で固く握りしめ、髪は手入れもされずにぼさぼさのまま。服も、参拝に来るにしては薄汚れている。顔立ちはなかなかに可愛らしいが、その顔も、今は心配ごとによって皺が寄せられ、口元も歪められていた。
貧しい農家の娘、それも――よほど貧しく、いま着ているものの他に何も持っていないような家から来たとしか思えない。
(この辺の住民じゃねぇな。さっき、ネフェルテム神の御名を言い淀んでたことからしても…他所者か?)
道案内をしながらも、彼は、素早く思考していた。
「ネフェルテム様のお社に向かわれるということは、どなたかがご病気なのですか。それとも、ご自身に問題がおありですか?」
やんわりと、遠回しに素性を探ってみる。
薬学と活力の神であるネフェルテム神の社に用事があるのなら、薬が必要な問題を抱えているか、自身の女性としての瑞々しさに問題があるか、その、どちらかに違いない。
「あの、…父が、ずっと病気なのです…。」
娘は、ぽつりと言って、いちど言葉を切った。
それから、ずいぶんと間をおいて、決して滑らかではない口調で、続きを口にする。
「下流の街から、二週間前にここまで来ました。仲間も一緒です…父はその前から身動きがとれない体で。旅をしたせいで、余計に悪くなりました。もう、長くないと思います。薬では治らないとも言われてます。でも、痛い痛いと言っていて、どうにか和らげたくて…それで…神様にお祈りを。ネフェルテム神がいいだろうって、地元の人に言われたので…。」
「ということは、お父上は流行り病などではないのですな」
「節々が痛くて、立ち上がることも、もの持ち上げることも出来ないのです。はい、人に移るような病ではありません。でも、塗り薬も飲み薬もいっこうに効かず、悪くなる一方です」
それは、年寄りにはよくある病だとネフェルカプタハは思った。
年を取れば誰でも、多少は関節が痛くなる。ただ、運の悪い者は、その痛みが全身に広がり、日常生活もままならないほどになる。
(確かに、薬ではどうにもならなさそうだな。あとは祈祷くらいしか…)
医療の最終手段は、祈りによる精神の救済なのだ。
神殿に併設された「生命の家」、医学に通じた神官たちの集う、その場所でも、すべての病が癒せるわけではない。末期患者には「あらゆる病に通ずる祈り」を患者に教え、肉体の限界を受け入れて、冥界を訪れる準備をせよと説くことになっている。
それが、人間に出来る限界であった。
神々ですら死ぬことはある。老いや病気を受け入れることも、死を迎えることも、受け入れるしかない自然の摂理なのだ。
大神殿の外周をぐるりと周り、川に面した東の通りまで来た所で、ネフェルカプタハは足を止め、ふたつ並んだ小神殿の入り口を指さした。
「こちらが入り口です。手前がネフェルテム様のお社、奥がセクメト様のお社。セクメト様は戦と疫病の支配者。軍人か、疫病に侵された者でなければ用事は無いでしょうが、冥界神であらせられるプタハ様がお休みになってる昼間は、代わりにセクメト様に祈りを聞き届けてほしいと訪れる方もいらっしゃいます」
「…はい。」
娘は、虚ろな生返事をしただけだった。神の名前や役割を覚える努力は、最初から放棄しているらしかった。
彼女は、歩き出す前にネフェルカプタハのほうに軽く頭を下げた。
「あの、ありがとう…ございました」
「どういたしまして」
別れようとして、ふとネフェルカプタハは、さっきの理髪店での会話を思い出していた。
わざわざ、名前すら知らなかった別の街の神に祈りにやって来るくらいなのだ。彼女の街の守護神は、病には無力だったのか? それとも、全く別の面で効能を持つ神だったのか。
移民たちの本来の守護神はどんな神だったのか、興味があった。
「そういえば、ご婦人、あなたはどちらの街からお越しなのですか。その街の守護神は、なんという御名でしたか?」
神殿の入口を潜ろうとしていた娘は振り返り、無機質にその名を口にした。
「ジェデトの街の魂の主様。私たちの故郷は、ジェデトです」
(ああ、――なるほど)
街そのものの神格化、いや、文字通り、街の魂の化身とでもいうべき存在か。
つまりその神は、ジェデトの街にいる間は万能の守護を発揮するが、街を遠く離れた者には何の加護も齎せない。東からの移民に押されるようにして逃げ出した彼女たちにとっては、もはや頼ることも出来ない存在なのだった。
そんなことがあったあと、ネフェルカプタハは、そのささやかな出来事をすっかり忘れていた。
初めて大神殿の広い敷地にやってきた者が道に迷うことも、道案内をすることも、世間話をすることも、ありふれた日常生活の一部に過ぎない。取り立てて気にするほどの出来事ではないと思っていたからだ。
夜のお勤めをいつもどおりこなし、床につき、夜明けとともに起き出してて朝のお勤めをして二度寝。午後になり、神官修行を兼ねて経典の読書。信者からの相談を受け、夕方のお勤めを果たす――
――と、そこまではいつもどおりの一日だった。
事件に気づいたのは、お勤めを終えて、夕涼みがてら少し川べりでも歩いて来ようかと歩いていた時だ。
(…ん?)
ふと、西側の通用門のほうが騒がしいことに気がついた。大神殿の衛兵たちが何人も走り周って、忙しなく言葉を交わしている。何か、問題が起きたらしい。
「おい、なんかあったのか」
「あっ…ネフェルカプタハ様。実は、貸し出されていた神像が紛失したようなのです」
兵士たちは、勿論、雇い主である大神官の一人息子の顔くらい知っている。将来の雇い主でもあるのだから、報告を躊躇することもない。
「貸し出し? どの神像のことだ」
「ネフェルテム神の小神像です。祠堂に入れて、神官の一人が末期患者の元へ運んだそうです」
「ああ。いつもの治療だな」
病気や怪我の快癒のために、或いは家から出られず参拝できない敬虔な信徒のために、神の力の一部を宿した神像を、持ち運びのための祠堂に収めて患者の元へ訪問する。それ自体は、よくあることだった。
神像のご利益で必ず病が治る、というわけではない。治癒の見込みのない末期患者などへは、苦しみや死の恐怖を少しでも和らげられるようにと、そうするのだ。
「――で? その祠堂の中から、像だけが消えてたってことか。気づいたのは、戻ってきてからか?」
「そのようです。付き添いの神官は、戻ってくるまで一度も祠堂を開けていないと言っています。」
「どこの患者を訪問してたか、聞いてるか」
「名前まではわかりませんが、最近この辺りにやってきた移民の集落に行ったそうですね」
「……。」
ネフェルカプタハは、眉を寄せた。
昨日、ネフェルテム神の神殿まで案内した娘のことを思い出したのだ。
他の街から来た移民なら、祈るべき神はネフェルテム神ではない。だが、彼女のように、もはや本来の守護神の加護を得られない者たちなら、話は別だ。
(問題は、移民にはうちの神々に対する信仰心が、実際にはほとんど無ぇってことだな)
彼は、心の中で呟いた。
この国には、何百柱という神々が存在する。その全てを同等に敬うというのはほぼ不可能だ。
移住してきた者たちにとって、ネフェルテム神は異郷の、名前と効能だけ知っている疎遠の神の一柱に過ぎない。この街の住民が神像に何かすることなど考えにくいが、――よそ者ならば、もしかして。
それに、神像は、ただのモノではない。
神の力を宿して運び出される神聖なものなのだ。それが紛失したとなれば、神殿の威厳に関わる大問題だ。
「付き添いをやってた神官は、どこにいる。俺が話を聞いてみる」
(何かの手違いなら、いいんだけどな…)
きっとそうはならないのだと思いつつも、彼は、神像がすぐに見つかって、平穏な日常が戻って来ることを願っていた。
最初のコメントを投稿しよう!