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第3話 消えた神像
問題の神官は、まだネフェルテム神の神殿にいて、可哀想なくらい怯えた顔で空っぽの祠堂を前に座り込んでいた。
小さな神殿のような形をした祠堂は、神殿内に据え置きのものと違って木製で、神像を入れて背負って持ち運べるように軽く作られていた。手前の両開きの扉を開くと中に台座があり、そこに神像をはめ込めるようになっているのだ。両開きの扉には取っ手がついていて、そこに縄を架けて錠前代わりにする。
「戻ってくるまで、この縄は一度も解いていませんでした」
怯えた顔の若い神官は、やって来たネフェルカプタハの姿を見るなり、必死でそう訴えた。
「神殿に戻って身を清め、一息ついてから神像をお戻ししようと開けたところが、中身が消え失せていたのです。私は何も知りません、誓って…」
「あー、別にお前を疑ってるわけじゃねぇよ。まずは状況を確認したい。順を追って説明してもらおうか。よっこいせと」
彼は、神殿の床にあぐらをかいて腰を下ろした。床と言っても、神官たちが毎日の祈りの際に座る茣蓙は敷かれている。
そこは、小神殿の一番奥の至聖所、わかりやすく言うと神像の真ん前だった。
いわば神の御前ということになるが、既に日は暮れている。主神プタハは目覚めている時間だが、この小神殿の主であり、昼の神である水連の神は、既に眠りについていることになっている。神殿の表門は閉ざされて、開いているのは、裏の神官専用の出入り口だけだ。
ネフェルカプタハは、目の前の、おどおどした若い神官の名前を思い出しにかかった。大神殿にいる、様々な階級の数百名に及ぶ神官たちの名前も、彼は、ほとんど覚えていた。
「確かお前は…パヘム、だったよな? ネフェルテム神の専属神官」
「はい。さようでございます」
「患者は移民だったと聞いた。依頼は、いつ受けた?」
「昨日の夕方です。若い娘でした。父親が節々の痛む病で、もう長くはないので祈祷をお願いしたい、と。そこで、たまたまその場にいた私が請け負って、今朝早く、神像を持って患者の元へ向かいました。」
(やっぱ、あの時の娘か…。)
ネフェルカプタハは、昨日、神殿の入口まで案内した娘のことを思い出していた。
ということは、あのあと、娘は神官に父親のことを相談し、末期の治療として祈祷を頼んだのか。
「それで? 神像が無いのに気づいたのがさっきってことは、戻ったのも、その頃だってことだよな? 今朝早く出たんなら、何でまた、そんなに時間をかけたんだ。」
「祈祷の後に、患者が亡くなったからなんです。祠堂を持って戻ろうとした時、娘さんが、父親が死んだと泣きながらやって来て、すぐに埋葬したい、と…。」
「そりゃまた、性急な話だなあ。葬式の段取りも何も無かったのか」
「移民たちの暮らしぶりからすると、準備するにもしようがない、という雰囲気でしたね。夏場はすぐに遺体が傷んでしまいますし、同じ街からやって来た人たちは一箇所にまとまって暮らしていますから、改めて神官を呼びに行く手間を省きたかったんでしょう」
「…なるほど。まあ、故郷を離れて、勝手もわからん場所で死なれちゃ、葬儀の手順も何もないか。んで? お前は、頼まれたとおりに、葬式をやってきたのか」
「ええ…。私は冥界神のしもべではないから正式な手順は判らない、と言ったのですが、断りきれなくて…見様見真似で。」
「誰か呼びに人を寄越しゃよかったのに」
「それが…とにかく急いでいる様子で。早く片付けたいような、そんな雰囲気というか」
「ふうん? お前はそれを見て、どう思った。ずいぶん冷たい家族じゃねぇか」
「正直、珍しくもないことです。患者は、一目で分かるくらい衰弱して、助かりようもない状況だったんです。ご家族も近所の人たちも、介護で随分疲れているようでしたし、そんなものかと思いました」
パヘムの受け答えはしっかりしていて、動転して入るようだったが、少なくとも、この時点では、何かを誤魔化している様子は無かった。
(あとでその移民の娘のところにも話を聞きに行って、裏を取ってみるかな)
「それで――」
彼は、本題に入ることにした。
「神像が消えた時間を特定したい。ここを出てから、戻ってくるまで、祠堂の中身を確かめたことは?」
「一度もありませんよ、普通はそうでしょう。人目に晒すものじゃないですし、ここの至聖所の前で封印をして、戻ってきて開けたのも同じ場所でした」
(だろうな)
分かってはいたことだが、普段と違う手続きをしなかったか、いちおう尋ねたのだ。
祠堂を閉ざすのも、開けるのも、本体の神像の前で行うことが決められている。祠堂がここに戻されるまで一度も開かれていないというのは、当然のことなのだ。
「なら、祠堂から目を離していた時間を思い出せ。お前が関与していないなら、誰かが勝手に開けたってことになる。患者の家に行ったあと、祠堂から目を離してた時間はあったのか?」
「それは…。」
勢いの良かったパヘムの言葉が、急に淀み始めた。
「ええと、はい。祈祷が終わった後、外で移民の皆さんと雑談を。その時、昼食を一緒にどうかと誘われまして」
「ん? お前さっき、葬儀の準備も無いくらいだっつってなかったか? なのに、神官をもてなす飯はあるのかよ。」
「えっ、その……。」
「てか、神官に祈祷を頼んだってことは、何がしか寄進を寄越したんだろ? 葬式の準備も出来ねえくらいの暮らしぶりなのに、祈祷は頼めるってどういうことだよ」
鋭い指摘を前にして、パヘムは、何故か大いに慌てていた。
「も、もちろん、貧しいとは言え、蓄えは持っているようでした。それに、豪華なものを出されたとかではないんです。ただ、彼らは牧民でもあるようでして…家畜をたくさん連れていたんです。羊を、たくさん。それを一頭、潰してくれたんで…断れきれなくて」
「ははあ。羊肉の宴、ねえ。――職務中に肉を。ふうん…しかもお一人様で一頭…」
「す、すいません! 本当に申し訳ない!」
若い神官は額を床につけて、平謝りだ。
もっとも、ネフェルカプタハも本気で怒っていたわけではない。自分も似たようなことはやらかしそうだなと思って、苦笑していただけなのだ。
(まあ、食欲に負けただけなら、よくあることだ。しかし、羊…ねえ。)
この辺りの街では、羊は、それほど多くは飼われていない。牛のほうが重要で、好まれる。神殿の儀式で使われるのも牛だけだ。
(けど、確か、ジェデトの街の守護神の聖獣は、羊だった気がするな。その関係か)
他の地域とはいえ、神聖な動物とされる羊の肉を、しかも職務中に食べてしまうのはいかがなものなのか。メンフィス大神殿の規定ではっきり決められているわけでもないが、後ろめたいことは間違いない。
ともかくも、この若い神官は、羊肉の宴に気を取られ、祈祷のあともその場に留まっていたのだ。そして、その間、誰も祠堂を見張ってはいなかった。
「患者が亡くなった報せは、メシ食ってるときに来たのか」
「はい、それで、そのまま葬儀の準備になりました。彼らは、その…北の墓地に、岩窟墓の跡に、暮らしているんです」
何やら、歯切れの悪い言い方だ。
「…放棄された、古い墓に暮らしてるんで、埋めるところには事欠かないって言ってました」
「いや待て。てか、古い墓地? 今は使われてないにしても、昔は誰かの墓だったとこだろう、そこ」
「ええ、まあ…。でも、だいぶ昔に盗掘されたか、放棄されたかして、今はほとんど空っぽで」
「で、埋めた? どこに埋めたんだ。いま使われてる共同墓地じゃない場所に、勝手に埋めたのか」
「……はい。」
「ああー…。困るんだよなぁ、勝手にそのへん墓作られちゃ、管理もくそもねぇ。新しい墓をどこに作ればいいか分からなくなるだろ。まいったな」
神官は、ただ縮こまっているばかりだ。
「お前、その場のノリで流されて何も言わなかったんだな?」
「は、はい。すいません…。葬儀なんてやったことなくて、テンパっちゃってて」
「まあ、もう済んだことだ、仕方ねぇ。そっちは明日でも様子見に行ってくっからいいんだが、問題は葬式の後だ。ここに戻ってくるまで、どこにも寄らなかったのか?」
「…それが」
「寄り道したのかよ!」
「す、すいません」
「謝るのは後にしろ。どこに寄った」
「…理髪店です、北門の近くの」
「ああ? いつもお勤めの前に行く、あそこか? 何でまた。」
「ちょっと暑くて、涼むつもりで…。あそこ、川に近くて涼しいでしょう? それで」
何とも、呑気な話だ。
ネフェルカプタハも、さすがに少し呆れはじめていた。この若い神官は、経験が浅いだけでなく、どうにも信用しきれない。
「んなもん、まっすぐ戻って、神像をもとに戻してからで良かっただろうが」
「いや、その。焼肉の匂いがついてましたし、墓穴に入ったり、汚れてましたし、身を清めてからと思いまして…。」
「あー…てことは、着替えて、清めの池にも寄って、それからここに戻ってきたと」
「はい。そうです、よくわかりましたね」
「そりゃあ、こんだけ話を聞けばな…。」
つまり、この神官には、道中で祠堂の中身を盗まれるスキが、山ほどあったということだ。
「焼肉に、葬儀に、剃髪に、清めの池。それから? もう、無いだろうな? それからすぐに、ここで祠堂を開けたのか」
「いえ…もよおしてきたので、祠堂をここへ置いてから、…その。用を足しに、外へ」
「おおい! そんなもん、我慢出来なかったのかよ!」
「す、すいません」
「はあー…で、スッキキリして戻ってきて、いざ御開帳、となったところで、この騒ぎか」
「はい、そうなります」
「状況は、分かったよ…。」
つまり、最後に、祠堂を神殿に戻してからの時間も怪しいということになる。
あまりにも隙だらけで、どこの隙を突かれたのかすら見当もつかない。
戻ってきて、祠堂を開けるまで気が付かなかったということは、途中で重さが変わったかどうかすら意識していなかったのだろうか。
「とりあえず、それぞれの時間で容疑者を探すとするか。まずは、移民のところだな…。」
ネフェルカプタハは、至聖所を出ると、近くにいた衛兵を呼び止めた。
「おい、衛兵。念のため、この小神殿の入り口を見張っといてくれ。あと、明日の朝イチは、信者も入れるな。」
「ええっ?!」
何故か、パヘムが素っ頓狂な声を上げた。
「日課のお勤めは、どうするんですか?!」
「何だよ。何も、お勤めをするな、とまでは言ってねぇぞ。ただ、小神像がこの神殿内で盗まれた可能性もあるんだ。現場の保存は大事だろ。何か手がかりが残ってるかもしれねぇし」
「…その、…見張りを立てるってことは、お勤めの間中、ずっとそのへん兵士がうろうろしてるってことですよね?」
「今更だろ、元から神殿の敷地内は昼も夜も衛兵がウロついてんじゃねーか。問題あんのか。」
「い、いえ」
パヘムは青ざめた顔で俯いて、モゴモゴと、言葉にならない言葉を呟いている。
(……?)
どうも、様子が変だ。
ネフェルカプタハは直感的に、相手がまだ、何かを隠していると気がついた。
(見張りが居ちゃマズいのか。てことは、何か見られたくないことがあるんだな? ふうん…)
もしかしたら、この頼りない若者は、ただの神像を盗まれた間抜けな被害者というだけではないのかもしれない。
「祠堂には、しばらく誰も触れさせるなよ。明日、もう一度調べに来る」
「了解しました」
「…さて、と。パヘム、お前はもう戻っていいぞ。俺は念のため、ここの中を少し探してみる。まさかとは思うが、誰かがいたずらで、どっかに隠してたりするかねしれねえからな」
虚ろな目をした若い神官は黙って立ち上がり、とぼとぼと、裏口から出ていった。
あとに残ったネフェルカプタハは、空っぽの祠堂を確かめた。見た所、明らかな異変はない。中からは、持ち出すときに焚きしめられた香の匂いがかすかに漂う。それ以外には――
(…ん?)
ふと、背面の一部に、不自然に汚れている部分があることに気がついた。祠堂の表面に描かれた、水連の意匠の花びらの部分に一部、傷のようなものが入り、その上から何故か、場違いなほど真新しい色が載っている。
指で触れると、かすかな湿り気を感じた。
(何だ、ここだけ直前に塗り直したみたいな色だな。誰が…)
ふと顔を上げると、目の前に、同じ色で塗られた壁面の絵が見えた。
壁に掘り込まれた聖刻文字の部分だ。端から半分ほどのところまでが、最近になって塗り直されたかのように鮮やかな色になっている。
(修復…?)
至聖所から顔を出し、言われたとおりそこで見張りをしている衛兵に尋ねる。
「おい、昼間、この中で誰か作業をしてたのか? 壁が新しくなってる」
「ええ。壁画の定期的な修繕で、絵師が入ってたはずですよ。ここのところ夕方になると、お祈りに来た信者がはけた頃に、毎日、少しずつ作業しているようです」
「てことは今日も、夕方頃に誰かいたんだな? 絵師が」
「そのはずです」
(…なるほど。そいつが、祠堂に触れた可能性はあるのか)
だが、絵の具が扉の部分に残っていたならともかく、背面だけ、というのは謎だ。ただうっかり、手をついてしまったようにも見えなくもない。――背面だけにに手をつくような、器用な体勢が取れるものなら、だが。
辺りをぐるりと見回して、念のため、祭壇や供物台の下も調べる。
小さな燭台を手に正寝殿の中を隅々まで探し回ってはみたものの、結局、神殿内のすぐに見つかりそうな場所には、紛失した小神像は見つからなかった。
(まあ、そうだよな。そんなにすぐ、出てくるわけもねぇか)
ため息をついて、彼は燭台の灯芯を指でつまんで火を消した。
もう、日はとっぷりと暮れている。今から明かりを持ってうろうろするよりは、明日の朝、日が昇ってから探索したほうが早いだろう。
神官専用の通路になっている小神殿の裏口へと向かいながら、ふと、彼は傍らの狭い急な階段を見やった。
(そういや、ここ、二階があったんだったな…)
その階段は裏口の直ぐ側にあり、何度か折れ曲がりながら二階へと繋がっている。
上部には、儀式の際に使う道具や呪文書などが収納されているはずだ。いわば、貴重品の保管庫だが、その場所のことは神官しか知らない。ネフェルカプタハも、自分の担当ではないこの小神殿の二階には、上がったことがほとんど無かった。
(上を調べるのも、明日になってからだな)
明日、誰か、ネフェルテム神に仕える神官を連れて来てから、念のために調べてみよう。
そう思いながら裏口を出た彼は、父であり、このメンフィス大神殿の長でもあるプタハヘテプに、ことのあらましを報告するために、この時間ならいつも居るはずの私室に向かって歩き出した。
事態が思いもよらない方向へと急変したのは、次の日の朝のことだった。
夜明けとともに、朝のお勤めのために冥界神の至聖所へ向かおうとしていた神官たちの行列に向かって、衛兵がただならぬ形相で駆け寄ってきたのだ。
「失礼します、大神官様、た、大変です!」
行列の先頭にいたプタハヘテプは、眉を片方跳ね上げた。
「何事だ」
「神官が…神官が死んでます! 頭から血を流して…ネフェルテム神の小神殿の裏手で、聖牛の社の近くです」
神官たちがざわついた、行列の中にいたネフェルカプタハも、思わず身を乗り出した。
「おい、そいつの名前は。まさか…」
「…パヘムという者です」
やはり、そうなのか。
彼は思わず、苦い顔になった。
――消えた神像の事件は、どうやら、ただの盗難事件では無くなりそうだった。
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