第4話 小神殿の二階の秘密

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第4話 小神殿の二階の秘密

 大神殿の朝のお勤めは、夜明けとともに眠りにつく冥界神プタハの至聖所を閉ざすことから始まる。  この毎日の儀式を欠かすことは出来ず、時間を遅らせることも出来ないから、大神官プタハヘテプは簡単な報告だけを受けて、普段通りに至聖所へと向かった。  若い神官たちは、直前に聞いた恐ろしい報せのせいで気もそぞろになっていたが、ネフェルカプタハは、なんとか好奇心を抑えて普段通りの手順をこなした。  それが終わると、すぐさま事件の現場に駆けつけた。  昨日も訪れた、ネフェルテム神の小神殿の裏手だ。  遺体には亜麻布が掛けられて、「生命の家」の神官たちに取り囲まれている。これから「生命の家」の裏手にある遺体の一時保管場所まで運ぶのだろうか、遺体には布が掛けられて、その下からは、漆喰のように真っ白な腕が一本、突き出している。  「生命の家」は神殿に付属する医療機関のようなもので、傷病の手当に慣れた医療知識を持つ神官たちを抱えている。彼らなら、遺体の傷からある程度は死因の見当をつけることが出来る。  駆けつけた時には、彼らは既に必要なことは調べ終わっている様子で、傍らの書記が、状況を聞きながら書き留めている段階だった。  「おい、死因は一体、何なんだ。パヘムが死んでたって…誰が見つけた?」  「見つけたのは、朝のお勤めに来た神官たちです。ネフェルテム神の至聖所を開きに来て、裏口と外周壁の間に倒れているのに気づいたそうです」 淡々と答えるのは、既に何十年も「生命の家」に勤めていて、人の死も、死に至る傷も見慣れた古参の神官だ。  「墜落死でしょうね。頭部の陥没具合からして」 言いながら、小神殿の二階の窓あたりを見上げる。  「あそこから、真っ逆さまに落ちたのです。首の骨が砕けて、即死だったようです」  「墜落、って…。朝のお勤めの始まる時にはもう、死んでたんだろう? なら、その前に登ったっていうのか」  「おそらくは」  「夜、見張りはしてなかったのか?」 ネフェルカプタハは、遠巻きにしている衛兵のほうを睨んだ。  「昨日、念のために見張ってろっつったろ」  「中に一人立たせておりましたし、外の警備は、いつもどおりでした」 睨まれた兵士の一人が、困惑したような表情で答える。  「ご存知でしょうが、小神殿の外側、川べりの通りと、神殿内の巡回は、毎日やっています。もちろん、昨夜もいつも通りでした。ただ、神官が夜中に出歩いていても、何か用事があるのだろうとしか思いません」  「つまり、こいつが小神殿に近づいたかどうかは、わからんと?」  「はい。昨夜、見かけた者がいないかは調べてさせていますが、たとえ見かけていても、制止まではいたしません。さすがに通常と違う時間に小神殿に入ろうとしていれば不審に思って呼び止めたかもしれませんが、そのような報告もないということは、巡回の目が無い時間帯に裏口から二階へ上がったのでしょう。二階への階段は、裏口のすぐ側です。中にいた者でも気づきません」  (確かに、そうだな) この大神殿の主神は冥界神で、夜間が彼の時間帯なのだ。夜中に行うことが必要な神事も、幾つかある。自分が兵士だったとしても、敷地内で見かけた神官を、わざわざ呼び止めたりはしないだろう。  それに、神殿の敷地内は、神官が私的に出歩くことは特に禁止されてもいない。たとえ夜中にうろついていたとしても、寝付けずに散歩でもしているか、考え事か、急な用事なのだろうくらいにしか思わないに違いない。  ただ、パヘムの場合は違っていた。昨日の様子からしても、この状況からしても、何か良からぬことをしようとしていたはずなのだ。  小神殿の見張りには、裏口のほうも見張らせるべきだった。――これは、パヘムが、その夜のうちにこっそり戻ってくるとは思いつきもしなかった自分の失態だ。  「こいつには、大急ぎでここへ戻ってくる理由があったんだ。翌日の捜索を気にしていたのか? それとも…」 布をめくると、目を半開きにした、血まみれの恐ろしげな死に顔が見えた。思わず吐き気を催しながらも、ネフェルカプタハは、何か手がかりはないのかと目をこらした。  そして、気がついた。  布から突き出すようにして伸ばされた、固く握りしめられた手の中に、しっかりと握りしめられている小さなものがある――。  「おい、こいつ、手に何か握ってるぞ」  「む、本当ですな。調べてみましょう」 「生命の家」の神官は、慣れた手付きで死者の指をこじ開けて、中から赤い色をした糸くずの塊のようなものを取り出した。  「何だ? これ」  動物の毛…、いや、毛織物の一片か。房飾りだったものか、端の方のほつれた糸をくくりつけて、それ以上解けないようにした部分のように見える。  ネフェルカプタハは、受け取った毛織物を光にかざして、首を傾げた。  「羊毛…?」  神官は、毛織物を身につけることはない。ましてや今は真夏の盛りだ。街の住民だって着てはいない。敷物か何かの一部だろうか。それとも、仕立てる前の反物か。  「――あの、この遺体はもう、収容してもよろしいでしょうか」 仲間らしい、ネフェルテム神の神官が、いたたまれなさそうな表情で尋ねる。  「このままには…しておきたくないので」   「ああ、そうだな。確かに、いつまでもここに寝かせておくわけにはいかねえ。連れていってやってくれ」  「ありがとうございます」 ほっとした様子で、神官は衛兵たちに、遺体の運搬を依頼しはじめた。  白い布を被せられたパヘムの物言わぬ体が、「生命の家」の遺体安置所へ向かって運ばれてゆくのを、ネフェルカプタハは、苦々しい思いとともに見送った。  彼が何かを隠しているらしいことは、昨日のうちに薄々、気づいていたのだった。  それが、この死にどう繋がるのかも、消えた神像に関係することなのかも見当がつかなかったが、もしも昨日のうちに問い詰めて、無理矢理にでも聞き出していれば、夜中にこそこそして、こんなところで命を落とすことは無かったのかもしれない。  ――だが、今となっては遅すぎる話だ。  当人からもっと詳しく聞く機会は、永遠に失われた。  パヘムは死に、隠していたことも、神像の行方を探す手がかりも彼自身から得ることは出来なくなってしまった。ならば、手掛かりは、他の場所から見つけるしかない。  まずは、気になっている、小神殿の二階部分の探索だ。  「おい、ネフェルテム神の神官。誰か、二階について来てくれ。状況を調べたい」  「それならもう、衛兵と一緒にさっき、上がった者がいます。墜落した場所を特定したいとのことでした」 一人が答える。  「分かった、なら、行ってみる」 裏口から小神殿に入って、狭い階段を登っていく。二階部分は、正確には中二階で、天井を支える太い列柱の合間に作られている。  冥界神の神殿とは違い、こちらは、太陽神の眷属の住まいだ。柱の間には大きく窓が開かれて、外から差し込む陽光が、小神殿の内部を明るく照らし出している。  神官が一人、そこにいて、衛兵と何か話し合っていた。  「何か見つかったか?」  「あっ、ネフェルカプタハ様。それが…おかしなものが」 神官の深刻そうな顔をして、すぐ後ろの巻物の積み上げられた書架の脇を指さした。  「これを見てください」 書架の脇の、書物などの作業に使うらしい小さな卓の上に、薬を調合するための道具が揃えられている。それ自体は珍しいものではない。神殿の敷地内に付随する施薬所では、よく見かける品ばかりだ。  「こんなところで、薬を作るのか。」 ネフェルテム神は自身が水連の化身とされ、薬学の神でもある。小神殿の裏手には薬草園が作られ、施薬所で処方される薬も、薬草に通じたネフェルテム神の神官たちが行っている。  だが、その場に居た神官は否定した。  「いえ、ここは医学書の保管場所の一つではありますが、通常は、こんなところで調合はしておりません。これはパヘムが、いつの間にか、勝手に持ち込んでいたもののようです」  「勝手に、って――。誰も気づかなかったってことか?」  「はい。ここへは我々も滅多に上がりませんし、普段はそこの箱に入れて隠されていたのだと思います。」 と、ネフェルテム神の神官は、卓の横に無造作に開かれたままになっている木箱を指さした。  「何で、パヘムのものだって分かったんだ」  「巻物から調合を書き写したものが何枚か、箱の中に隠れされておりました。彼の字です。それに…今考えてみれば、たしかにパヘムはこのところ、足繁くここに通っていたのです。急に勉強熱心になったものだと不思議に思っておりましたが…。」 つまり、ここで密かに薬の調合が開始されたのは最近のことで、パヘムは、そのことを誰にも知られたくはなかったのだ。  「てことは、あいつが夜中にこっそり一人でここへ戻ってきた理由は、その道具やら痕跡やらを、もっと人目につかない所に隠したかったからなんだな」  「かもしれないと思っていたところです」  「で、奴が調合しようとしていたものは、どういう薬なんだ」  「すぐには判別がつきません。ただ、調べれば、どの巻物から写したかはわかります」  「んじゃ、それは調べといてくれ。――で? パヘムが落ちた場所のほうは、見つかったのか」  「おそらくは。」 今度は、衛兵のほうが答える。  「ちょうど、そこの窓ですね。」 書架からそう遠くない場所、列柱の間から容易に身を乗り出せるような場所だ。  「確か、パヘムが倒れていたのは、小神殿の裏口と、外周壁の間だったよな?」  「そうです」  「ってことは――」 ネフェルカプタハも同じ窓から顔を出して位置を確かめた。  真下の地面には、どす黒くなった血の跡と、駆け寄った仲間たちのものだろう沢山の足跡が残されている。  確かに、ここがちょうど、転落していた場所の真上になる。だが、書架の位置からは随分と離れているし、意図してここまで来なければ、転落することなどあり得ない。  「何でまた、こんな場所から顔を出したんだ。いや、顔だけじゃねぇな。落っこちるくらい、身を乗り出して――」 窓からぐるりと辺りを眺めた彼は、ふと、目の前の外周壁の上部を。  「ん?」  それから、窓から後退して、さっきの卓の場所まで戻る。  「…妙だな」  「どうかしましたか」  「いや、パヘムは、ここで何か作業をしてたんだろ? で、転落したってことは、何かに気づいて窓に近づいた。けど、こっからじゃ、壁しか見えねえじゃねえか」 外周壁のほうが、二階の窓より高いのだ。窓から見える風景は、ただの殺風景な石壁だけである。  「身を乗り出した、ってことは、何か気になるものが見えたってことかと思ったんだが、そうじゃねえのか…? 身を乗り出すようなものなんて、見えそうにないな。何か、派手な物音でもしたとか?」  「物音についての報告はありませんね。もっと言えば、被害者が転落の際に悲鳴を上げたとかも無かったようです。転落した音も、聞いたものはいませんでした。おそらく、近くに兵のいない時間帯だったのかと」 小神殿の外壁は、しっかりとした石で出来ている。裏口の物音は、祠堂の置かれた表側の小部屋までは聞こえなかったに違いない。気づけたのは、外にいた兵士だけだったはずだが、――それも、ちょうど、その時間帯には居なかったのだ。  「うーん…あっ、そういや、この近くに聖牛の社があったな」 エムハトが管理している聖牛の社は、薬草園の中に併設されている。世話役の彼はいつも、すぐ隣の作業小屋で寝泊まりしていたはずだ。  「ちょいと、エムハトのやつに昨日のことを聞いてくる。お前は、パヘムが隠れて調合しようとしてたのが何の薬か、急いで調べといてくれねぇか?」  「はい、そうするつもりでしたので。明日にはご報告出来るかと」  「それと、パヘムが羊毛みたいなもんを握りしめてたんだ。この近くで毛織物か毛糸か何か見つからないかも、探しといてくれよな」  「わかりました。」 ネフェルテム神の神官と衛兵に調査を頼んでから、ネフェルカプタハは、慌ただしく小神殿を出て聖牛の社のほうへと向かった。  聖牛の世話役であるエムハトは、今日も、いつものようにうっとりとした顔で、見事な黒毛の牛の世話をしていた。聖牛というのは最近になって神殿に迎えられた若い雄牛で、冥界神の聖獣でもある。  「おい、エムハト。神官がネフェルテム神の小神殿の二階から転落したって事件のことは聞いてるか」 いきなり現れたネフェルカプタハに、前置きもなしにそんなことを聞かれても、聖牛の世話役の若者は、いつもと変わらぬ、のんびりとした口調で答える。  「聞いてますよう。近くで人が死んでただなんてもう、恐ろしくって恐ろしくって」  「そのことで確認したい。昨夜、何かおかしなものを見聞きしたりはしてねえか。」 普段からぼんやりしたところのあるエムハトが、何かに気づいた可能性は低かった。だが、現場に一番近い場所に寝泊まりしていて、彼なら、一晩中、聖牛の側を離れていなかったはずなのだ。  「おかしなもの、ってほどじゃあないんですけど、夜中に一度、ふと、目が覚めたんですよね。聖牛様が何かに興奮して、お声を上げたみたいで」  「何だと? …って、それ、いつのことなんだ」  「わかりませんよう、そんなこと。すぐに静かになって、寝直したんで」  「何か、手がかりとか無いのか。寝入って数時間だったとか、夜明け前だったとか」  「どっちでもないので、真夜中でしょうねえ。」 相変わらず、エムハトの受け答えには具体性が薄い。  だが、少なくとも時間帯を絞り込むことは出来た。  (夜中で、薬草園の近辺に見張りの居なかった時間帯、か。) 薬草園や聖牛の社がある区画は、一般の信者が立ち入る場所ではなく、施薬所や神前法定のある区画からは隔てられている。塀のこちら側に誰か居れば、パヘムの転落の原因となった異変か、パヘムの転落する音に気づけた可能性が高い。  そうでなかったのなら、誰も居なかったのだ。  (さて、次は…。) ここまで一気呵成に調べてきたネフェルカプタハは、次に何をするべきか分からなくなってしまった。  断片的な情報から筋道を立てて可能性を探るのが得意なのは、相棒のチェティのほうなのだ。思いつきと閃き、それに行動力なら負けないが、論理的な推理は、一人では組み立てられそうにない。  (うーん…。とりあえずは、ここまでの報告だな)  パヘムの握りしめていた羊毛を大事に手の中に収めたまま、ネフェルカプタハは書庫の方へと向かっていた。  そろそろ、書記たちが出勤してくる頃合いだ。神殿内で起きた事件ともなれば、筆頭書記のジェフティのところへも、事件の報せは届いているだろう。  彼ならばきっと、この件も、あっという間に解決できるに違いない。
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