セフレ脱却!

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*****  安岡は三十一歳の独身男性。うだつの上がらないサラリーマンとは自分のことだと安岡自身、確信している。人生の充実度を数値で示すとするなら、まあだいたい二十パーセントは切っていて、恋人についても長らくおらず、彼はその期間を密かに「失われた十年」と呼んでいる。 *****  安岡のささやかな楽しみは、金曜日の夜の一人酒である。行きつけの店があり、それは最寄り駅のそばにある古く趣のある居酒屋だ。多少、値は張るが、安っぽいチェーン店ではいけない。落ち着いたカウンター席で焼き鳥とエイヒレをつまみにビールを飲み、日本酒をすすることこそ至上の幸福なのだ。どうしても発生してしまう手持無沙汰感にはスマホをもって対抗する。ニュースに目を通したり、ゲームをしたり。寂しい身の上ではあるものの、マッチングアプリ等を利用したことはない。手を出したら最後、のめり込んでしまいそうな気がする。それが嫌だ――というより、怖い。一昔前に分かれて以来、良い仲の女性はおらず、その「失われた十年」は自分をある種の腑抜けにしてくれた――と、安岡は考えている。  大将に徳利のおかわりを頼んで席を立った。トイレだ。用を足しながら、目の前の壁に貼られている店長直筆の色紙を見る。嫌でも目に入るので眺めるしかない。崩した字で「亀は全力を出した。きみはどうだ?」としたためられている。どこかで聞いた覚えのあるフレーズなのだけど、ソースが誰であるかはいっこうに思い出せない。だったら「ググれカス」という話である。安易にネットに頼ったら負けだと考えているのはなぜなのか、不思議でしかない。  席に戻るところで、若い女性が二人の男に声をかけられている場面に出くわした。絡まれていると言ったほうが適切だろう。「一人なんだろ? 一緒に飲もうぜ」みたいな感じだ。二人とも体格がいい。チャラいファッション。大学生に見える。女性は「嫌です」ときっぱり断り続け、どれだけ誘われようが椅子から立とうとしない。――男の一人がついに女性の右の二の腕を掴んだ。  これはマズい。  そう思った次の瞬間、安岡は男らに近づいていた。  臆病なくせに、できうる限り冷静さを装って、言ったのだ。  俺の恋人に汚い手で触るな。  男らは揃ってにわかに眉根を寄せたものの、それ以上の攻撃の意思は示すことなく、忌々しげな顔を残して去っていった。  肝が冷えた。  冷や汗もかいた。  一世一代の大勝負だったなんて言うと、大げさだろうか……。 *****  女性は右方――椅子を一脚挟んだ向こうの席に座っていた。もう一時間以上もいるらしい。そのことにまるで気づいていなかった安岡である。女性がそれなりに――否、大いに美人だからこそ、自分は男性としてついに枯れ果ててしまったのではないかと疑いたくなった。ちょっぴり泣きたくなるくらい悲しい気分に陥ってしまう。  女性は今、隣の席にいて――最初に「村井と言います」と名乗った。「少しおしゃべりしませんか?」ということだったので、話をするだけならべつに名前を言う必要は……と思った次第だが、聞かされて困ることでもない。だから安岡も名乗り返した。女性のことは「村井さん」と呼ぶことにして――彼女は「よろしくお願いします」と笑顔を見せてくれたのだった。  意外や意外、おしゃべりは盛り上がった。共通の話題があったからだ。アニメ、それにマンガである。同じ作品が好きで、同じキャラクターが好きだった。安岡、久しぶりによく笑った。村井さんもころころ笑った。どこからどう観察してもほんとうに素敵な女性で――率直に言って好きなタイプだなぁと、腐りかけていた恋心がぴくりと動いた。間違っても下半身が反応したということではない――と思いたい。  酒が進んだ。芋焼酎のロックばかりをあおるせいだ、そのうち呂律が怪しくなった村井さん。店を出るときはまだ歩けたのだけれど、店を出たところでつまずいて前のめりにべしゃっと倒れてしまった。慌てて近づき膝を折って「だ、だいじょうぶですか?」と訊いた。「だいじょうぶです!」と大きな返事。――が、へたり込んだ状態で「立てませーん」とか言う。  ここはおんぶか?  おんぶなのか?  気の小さなところのある安岡にとっては勇気の要る行動だったけれど、「どどど、どうぞ」と派手に吃ってしまったけれど、背を貸すことには成功した。「ありがとーっ」と大きな声で言い、「えいっ」と身体を預けてきたのだ。首に両腕を巻きつけてきて、ふたたび「ありがとーっ」。背中に伝わる胸の柔らかな感触が安岡の頬をにわかに火照らせる。 「帰りたくないです」 「えっ」 「ラブホテルに行きたいです」 「えぇっ!」  村井さんの露骨な誘いに対して断る勇敢さを持ち合わせていない邪悪な安岡は、生まれて初めて出会ったばかりの女性とセックスをした。 *****  どちらかが「したくなったら」連絡して、ラブホに入って「する」――いわゆるセフレの関係。アルコールが入ったら人一倍陽気になるものの、普段の村井さんは大人しい人だ。長い髪を一つに結って、地味な眼鏡をかけて、通勤服はグレーや紺色ばかりでなんだか野暮ったくて――。ただ、酒を飲んでいてもいなくても、村井さん、ベッドの上ではそれなりに乱れる。安岡もいろいろお願いする、メチャクチャ恥ずかしくはあるけれど――。  二人して行為に熱中しているあいだはいい。だけど、事が終わったら――ひどく冷静になったら、よそよそいくなるとまでは言わないけれど、おたがいに他人みたいになる。いや、他人同士には違いない。ドライな関係だからこそ、割り切ることが肝要なのだ。  朝、ラブホテルからの帰り道、途中の十字路で別れるところで村井さんはお辞儀をしてから「また会いましょうね」と言うのだけれど、そのセリフがいつ「さよなら」になってもおかしくない――安岡はそんなふうに考えている。 *****  別れのときは呆気なく訪れた。お父さんから「戻ってきて、見合いをしろ」と強く言われたらしい。白いブラジャーのホックを後ろで留めながら、村井さんは「言うことを聞こうと思います。特にやりたいことがあるわけではありませんし、もうすぐ二十八になりますし」と事も無げに言ったのだ。さすが村井さん、あっさりしてるなあと感じさせられ、だから安岡もできるだけさっぱりと「幸せになれるといいですね」だなんて伝えた。 「実家はどこなんですか?」 「仙台です」 「いつ帰られるんですか?」 「会社は今月いっぱいで辞めます」  今月――二月はもう、一週間しかない。  ブラウスのボタンを留め始めた村井さん。態度はいつも事務的で、だけどセックスだけは激しかったな。あらためて思い返すと、感傷的にもなる。  ――にしても、いいのだろうか。  このまま終わってしまっていいのだろうか。  なんだか、なんだかそれって、絶対に違う気が――してきた。  会えなくなるのだと強く実感できるからこそ、余計に寂しく思えるのだ。  安岡は急いでスーツを着た。ただただ真剣な顔をして、自分より少し小さな村井さんのことを見下ろし――見つめる。顔が熱い。照れくさい。それでもがんばって、「さっ、最後にデート、しませんか?」と切り出した。村井さんは眉を寄せ、渋い顔で「セックス以外で会うのはちょっと」と応えた。 「ででっ、でも、ほら、えぇっと、最後ですから」  村井さんは困っているような、あるいはほんとうに嫌がっているような顔をしている。  無理っぽいなぁと感じ取り、「じゃあ、見送りくらいはさせてもらえませんか?」と妥協した。でも、その願いも叶わなかった。「友人が来るので」と素っ気なく断られてしまったのだ。「そ、そうですか……」と引き下がるしかない。  ――と、不意に頭の中でとある漢字がじわりと湧いた。  水面に浮かび上がってくるようにして徐々に明確になったそれは、「絆」だった。  また唐突にキザなワードが出現したものだなと思いはしたのだが――。  気づけば、「俺たちの絆なんて、その程度だったんですかね……」と実際に口に出していた。――後悔した。あまりにヘヴィなセリフだから、反省したくもなった。「すみません」と謝った。村井さんは目を伏せて――。ああ、いよいよ嫌われてしまったなと……だけど――。  海が見たいです。  顔を上げた村井さんは静かに、だけどはっきりとそう言ったのだった。 *****  赤い電車に乗って、駅からは歩いて、乾いた砂浜に着いた。  昔、恋人と初日の出を拝みに来たことを思い出す。  海風が冷たい。隣に立った村井さんが、両手に息を吹きかける。今日に限って手袋を忘れてしまったらしい。だから貸そうとしたのだけれどにべもなく「要らないです」――口元をマフラーで隠してしまったので、もうしゃべることすら面倒になったのかと悲しくなる。悲しくなって――苦笑い。  安岡は前を向き、何の考えもなく、ただ放り投げるようにして、「寂しくなるなぁ」と言った。すると村井さんは「ごめんなさい」と小さく応え――。村井さんでも謝ることがあるのか――また苦笑。 「長いとは言えない関係でしたけど、ありがとうございました」安岡、すんなり言えた。「あなたに会えて、スゴく良かったです。俺、ほんとうに楽しかったんですよ?」  そしたら、「気のせいなんじゃありませんか?」と、投げやりなふうに、村井さんは言って。  気のせいなんかじゃない――と胸のうちで否定する。  また、「絆」という漢字が頭に浮かんだ。  友だちだったり、幼なじみだったり、恋人だったり、夫婦だったり……。  いろいろなかたちの絆がある。  じゃあ、いったい、セフレという関係における絆とは――?  きっととても不確かで、ひどく脆いものなのだろう。  そう考えると、もはや何も言えなくなってしまう。  口を衝いて出てくる言葉すらなくなってしまう。  黙って、黙って、押し黙る。  それでも、何か言いたい。  伝えたい。  もう、わかりきっている。  安岡なる男は、村井さんという女性のことを――。  ――でも。  ここでもまた、弱気の虫がひょっこり、顔を覗かせてしまうらしい。 「セフレから恋人になるとか、やっぱり、無理、ですよね……」  安岡は曖昧に「ははっ」と笑って、頭を掻いた。どんな顔をしているだろうと思い、左隣の少し離れた位置――村井さんに目をやる。彼女はゆっくりと彼のほうを向き、そして、眼鏡の奥の大きな瞳を潤ませて、ぽろぽろ泣き始めた。  驚いた安岡は「えっ、えっ?」と慌ててしまう。  村井さんは涙を流すだけ――唇を噛んで、両手をぎゅっと握り締めている。 「むむっ、村井さん!?」安岡はこんなときでも激しく吃ってしまう。「どどどっ、どうされたんですか?!」 「ごめんなさい」村井さんは鼻をすすった。「ダメなんです、私。会えば会うだけ安岡さんのことがどんどん好きになってしまって……」 「え、えぇぇっ!?」  意外でしかない告白に取り乱す安岡である。目を白黒させながら「どうしよう、どうしよう」と脳をフル回転させるが、適切な一言、あるいは気の利いたセリフなどまったく出てこない。 「以前付き合っていた男性に言われたんです。重い、って……」  村井さん、華奢だから体重は重くない――って、目下混乱中の安岡。 「もっと好かれたいって思って、ずっと愛されたいって考えて、だから、いつもいつも、彼に合わせていたんです。そうすることが、正しい恋人のあり方だって信じて……。でも、そういうところが重いんだって……重い女は嫌いだ、って……」  よくある話であるように聞こえるけど――それはキツいなぁと思った。  村井さんが「重い女」だなんて、想像もつかない。  誰にでも今とは違った過去があることはわかるけれど。  トラウマが彼女を強くした――のだろうか?  苦い経験が彼女を成長させた――のだろうか?  どうあれ村井さんはまた、男性を求めて……。  男性にしかない力強さだったり優しさだったりを、きっと欲しがって……。 「ごめんなさい」村井さんが右手の人差し指で涙を拭う。「ほんとうに重い女ですよね」と――たぶん、無理やり笑った。  たまらない気持ちにさせられた。  ――決めた。  もう決めた。  どうせなら、当たって砕けろ、だ。 「おおおおおっ」安岡、やっぱり吃る。「お、俺じゃダメですか?」 「えっ」と、村井さんは目を大きくした。  負けるな安岡、がんばれ安岡と言い聞かせることで、自分を奮い立たせる。  ここでしゃんとできない男はカッコ悪いぞと、心を強く持つ。 「今は弱い繋がり、関係かもしれませんけれど、その、言ってみれば絆っていう糸? ――みたなものって、これからいくらでも太くしたり、強くしたりできるんじゃありませんか? 俺はそう信じたい――から、そう信じ、ますっ」  きょとんとなった、村井さん。  困らせてしまうだけだっただろうかと、安岡は目を泳がせる。  ――心配は杞憂に終わった。  村井さんはやがてぷっと吹き出し、破顔したのだ。  おかしいと言って、笑ってくれたのである。 「ぜっ、ぜ? た、たた、たっ」 「ゆっくりでいいですよ」 「ぜ、絶対、大切にします。でっ、ですから――」 「わかりました。実家には帰りません」 「ほ、ほんとうですか?」 「ほんとうですよ」  ホッとして、脱力するようにして肩を落とすと、ショルダーバッグが滑り落ちた。  村井さんが近づいてくる。  どうして安岡さんが泣くんですか。  言われて初めて、涙が頬を濡らしていることに気がついた。  彼は言った。  キスしたいですって素直に言えた。 「いつもしているじゃないですか」 「人、いませんし」 「そういう問題ですか?」 「あっ、いや、その――」 「いいですよ」  目を閉じた村井さんに少しずつ顔を寄せ、ちゅっ――と唇に唇で触れた。  すぐに離れ、顔が真っ赤なことを自覚する。  彼女が笑顔でいることがとにかく嬉しくて、嬉しくて。 「うちのお父さん、超怖いですから」 「ががっ、がんばるます、あっ、ちがっ、がんばります!!」 「吃ったり噛んだり、なんとかしましょうねぇ」  村井さんは歌うように言うと、ハンドバッグを放り出して安岡の首に両腕を巻きつけた。  今度は彼女のほうからキスしてくれた。  もうびっくりして――波の音が、聞こえなくなった。
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