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北国
やはり、こっちは寒いーー。
妻には出張だと伝え始発のこまちに乗り、二時間以上北上して降り立った盛岡駅は、弥生ももう半ばだと言うのにもかかわらず粉雪が舞っていた。
あと僅か十日で、四十年以上勤め上げた役場の定年退職を迎えるというのに、こんなところまで来るなんて、自分でもおかしいと思う。
最繁忙期に年次休暇を申請したこともあって、課長や同僚の目も冷ややかだった。まあ、担当課長級止まりで定年を迎える僕の休みなんて、誰も気にしていないだろうーー。そう自虐しつつ、在来線に乗り換えた。
一両編成の車両が、深山幽谷の四字がよく似合う北上山地を、ひたすら東へ進んでゆく。自分の他にはお婆さんが乗ってきたのみで、車内は車輪の音以外何も聞こえない。目を閉じて物思いに耽ろうとしたその時。
「盛岡の人か?」
先ほど乗ってきたお婆さんが、隣に腰掛けた。齢八十、いや九十をとうに超えているだろうか、腰はほぼ直角に曲がっている。僕は驚き、思わずわっと素っ頓狂な声をあげてしまった。わざわざ、隣に座らなくてもーー。
「いえ、東京から」
お婆さんは眉ひとつ動かさなかった。興味があるのか、はたまたないのか。僕には分からなかった。刻まれた皺は生きてきた年月を感じさせるほど深く、表情が読み解けない。耳は達者なようで、特に聞き返されることもなかった。
「そったな遠ぐから、何しに?」
独特なイントネーションが、郷愁をくすぐる。僕はしばらく考え込んで、答えた。
「母校を見にきました」
「学校?」
「僕の生まれは、***なんです。今はとっくに無いのでしょうが、昔通っていた母校があって。定年を迎える前に、思い出したいなと思いまして」
「もう、近ぐに学校すら無えと思うがーー」
そう言ってお婆さんは目を閉じた。学校はとうの昔に閉校し、もう知り合いすらいないことは、良く分かっている。生まれ育った集落は、人の流出が途絶えず今では数世帯が残るのみと聞く。両親は足腰が立たなくなって盛岡へ移り住み、そこで最期を迎えた。
「僕の通っていたのは、小さな分校だったんです」
寝息を立てているお婆さんに対して、小さい声で呟く。轟々と音を立てる車輪の音と、外の風に声は掻き消された。
「同じ学年はたったの二人。マリっていう背の小さな女の子でーー。僕と同じならもう六十は過ぎます。私たちは仲が良くて、よく沢へ釣りに行って一緒に遊んでいました」
「僕は中学になったら盛岡の叔父に預けられて、岩手中学に入れるって親父に決められていたもんですから。それをマリに伝えたら、一つ約束してって言われたんです。いつか、ここでまた会おうってーー」
「可笑しな話ですよね。場所も、時間も、何一つ決めていないのに。子供の約束なんてそんなもんでしょうか」
お婆さんはいびきをかき始めた。もちろん誰に聞かせたわけでもないが、少し切なさが出てきた。マリとはそれ以来、連絡すら取れていない。中学に入った最初の年の盆に帰ると、マリの家は空き家になっていた。
「んあ、じゃあ、おらはここで」
こじんまりとした駅舎が見える、山間部の駅に電車が停まった途端に、お婆さんは目を開けて立ち上がった。お婆さんはこちらを一瞥もせず、立ち上がって、腰を曲げてつつも、すたすたと歩いて行ってしまった。
人の気配がなくなると、どうも気弱になってしまう。電車の運転席をチラリと見て、込み上げてきた涙を誤魔化した。
「次は××、××ーー」
さらに三十分ほど、電車が広い北上山地の臍に到達したあたりで、腰を上げた。ここが集落の最寄り駅である。更にそこから徒歩一時間は覚悟しなければ、生まれ故郷の集落には辿り着かない。
駅舎を出たところは比較的まだ民家が多かったが、国道に沿って歩き始めてすぐ人の影は無くなった。平日の真っ昼間ということもあり、車通りも少なく、心細い。それに、盛岡駅に降り立った時よりも、風が冷たい。さすがは山間部の駅舎だと思った。
僕は何を期待して、こんなところまで来たのだろうか。一人で歩き始めて三十分が経過したあたりで、僕の心にうっすらとそんな疑問が浮かび始めた。マリに会おうとしているのか? いや、それは無理なことだ。もう四十年以上前に空き家になっているんだぞ。それに、今会ったところでーー。
「マリは、僕を覚えているだろうか」
口から溢れたその言葉が、向かい風に煽られて僕に突き刺さってきた。右目から涙が一滴、地面に零れ落ちた。まだ路肩には、残雪が寒寒として残っている。集落だけ、少し見て帰ろう。そう心に誓って、涙をウインドブレーカーの袖で拭った。国道をマイペースに走る、トラクターに乗ったお爺さんが一瞥したが、特に何も言わずゆっくりと通り過ぎていった。
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