邂逅

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邂逅

 一時間歩き通し、僕は生まれた集落に辿り着く。普段ここまで歩くことはない。限界まで乾燥した口の中に、冷え切ったペットボトルのホットコーヒーを流し込んだ。コーヒーで水分補給なんてバカな話だ、と笑った。  意外にも新しい一軒家がぽつり、ぽつりと建っており、わずかな希望を感じて立ち入ったものの、それは集落の入り口だけの話だった。マリが住んでいたトタン屋根の家は、半世紀前と変わらずそこにあった。しかし、屋根には穴が空き、玄関は朽ちて中を見せていた。台所のすりガラスの向こう側には、半世紀前から変わらずそこに放置されているであろう、忘れられた陶器の椀が透けていた。  僕はその場にしゃがみ込んで、啜り泣いた。大の大人が、定年間際の男が声を上げて泣いているなんて、情けなくて仕方がない。  これを見るのが怖くて、四十年間故郷に近づけなかったのである。しかし、これで良い。これで、心置きなく余生を過ごせる。僕は来た道を帰ろうと、よろめきながら立ち上がった。 「あっ」  立ち上がり、潤んだ目を袖で擦り、視界が開けた瞬間目に飛び込んできたのは、一匹の兎であった。真っ白な残雪に擬態していると言っても過言ではないほど、白い兎である。僕と白兎は目があったような気がしていたが、やがて踵を返して深い森へ消えていった。 「何も、食べるわけじゃないんだから」  ふっと笑ってそう呟いた刹那、僕は強烈なデジャヴに襲われた。 『ねえ、兎だよ!』  背丈の低いマリが、教室の窓枠から身を乗り出して、雪原のど真ん中に佇む一匹の白兎を指差す。僕は隣に寄って、マリの指の先を追う。目が真ん丸で、耳をぴくぴくと動かしている、少し薄汚れた白兎であった。 『あ、待てっ!』  やがて兎は、僕たちの視線を感じ取ったかのように、ぴょんぴょんと跳ねて森の方へ逃げていってしまう。分校で教鞭を取ってくれていた年増の女性教諭は、白兎に逃げられた僕らの様子が可笑しいようで、僕たちを見て笑う。 『もう、何も食べないんだから。逃げないでもいいのにね』マリは頬をわざとらしく膨らませ、自分のカバンに教科書を詰めた。  僕は暫く目を瞑った。僕が知らない、いや、忘れていたマリに出会えて嬉しさを感じていた。それが原動力となって、僕は意を決し足を進め、分校跡に向かった。もう、無いかもしれないけれどーー。  少し歩いて、僕は再び衝撃を受けた。あの特徴的な赤い屋根が、道路から見えたのである。校門があったところはすでに空き地となっているようで、膝ほどまである積雪をかき分けて分校へ近づいた。    校舎を間近で見ると、思った以上に弱々しく感じる。それも当然だろうな、と僕は思った。木造なので、冬が来るたび風化してきたのだろう。僕はお邪魔します、と心で呟き、玄関の隙間から中に入った。古びた木の匂いが鼻腔を刺激してくる。中は集落の物置と化しているようで、冬季は使わない農機具なんかが、所狭しと並べられていた。  ギシギシと音を立てる床を踏み、校舎を巡っていると、当時の記憶が次々に流れ込んできた。白髪の校長先生が、僕たちを誘って川へ釣りに連れて行ってくれたこと。本校の子たちが遊びにきてくれたこと。そしてーー。  僕が立ち止まったのは、あの教室の前だった。僕とマリが、六年間を共にしたこの教室での思い出が、僕を半世紀前に引き戻すように、一気に流れ込んできた。中から、ガタッと音が聞こえた気がする。古びた校舎なので、隙間風に弱いのだろう。いずれ立ち寄ったら、早急に立ち去ろうーー。僕は教室の引き戸に手を掛け、ガラッと引いた。 「えっーー」  マリであった。マリが窓際に腰を下ろし、こちらを驚いた顔で見ていたのである。僕は言葉を失った。  
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