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少女がつぶらな瞳を、ゆっくりと見開く。顔を上げたその表情には、風龍を真剣に見つめる光が宿っている。
風龍はそんな彼女に、静かに語りかけた。
“人間は、実に色々なものを描きます。“
そうですね?というように問いかけると、少女は頷いた。
風龍はその確認を終えると、一度頷いて静かに話を続ける。
“砂の上に描かれるものは、本当に様々。みっちゃんのように不思議なお化けの世界の絵を描く人もいれば、全人類の分の相合傘を描いてしまおうとでもいう勢いで海岸を埋め尽くしていく人もいます。小説家が書けない悩みと次回作のネタをごた混ぜに砂へ書き殴ることもあれば、自分を絶望へ陥れた仇敵への呪いを刻みつけるような人もいます。……さあ、これら全部が、永遠に砂の上に残り続ければ、どうなると思いますか?“
“……怖い。”
そうですね、と風龍は頷いた。
“怖い、というのも無理はありません。だって、不自然なのですから。ですから私は風を吹かせます。恨みも辛みも喜びも幸せも、平等に吹き消して、新しい明日を運ぶ。爽やかでしょう。ずっと鎖みたいに過去を引きずっていないで前を向くため、昔のものは綺麗さっぱり消してしまう。寂しいけれど、それもお茶に加えるちょっぴりビターなエッセンスみたいなものです。“
柔らかに風龍がそう締めくくると、少女は考え込むような素振りを見せた。
風龍の言葉はついさっき、この風を吹かせる仕事を『酷い』と表現した少女の言葉を遥か超越して吹いていったようだった。
自分の絵を消されてしまったことへの恨みを一時綺麗さっぱり忘れ、少女はこの難しい問題への答えを探し始める。
自分の勝手で砂の上の絵を永遠のものにしたい、と願うことがどこか間違っているようなのはわかった。しかし風龍の意見を鵜呑みにするのも、なんだかモヤモヤした。
無言で考え込む少女を、風龍は優しく見守る。
しばらくして、少女はゆっくりと顔を上げた。
“この世界には、諦めなくちゃならないことがあるっていうのはわかった。……でも、やっぱり寂しいものは寂しいし、嫌なことは嫌。……だから、風龍さまにはこれからも文句を言うことにする。”
少女の声は小さかったけれど、十分に毅然としていた。まるでどんぐりを発見したリスのように堂々としたその居住まいに、風龍は思わずといった調子で、ふっと笑い声を漏らした。
“みっちゃんの恨み言なら可愛らしいので大歓迎ですとも。”
“……そう言われると……それはそれでなんか嫌。”
“ええ、そうでしょうね……。”
風龍はしみじみと微笑みを浮かべていたようだったが、ふいに声音を変えた。静かな声が、少女の心に届けられる。
“でも、本当にみっちゃんが寂しいと思うなら。私の風とかいうちっぽけな力で消滅してしまうものなんて、一つもないんですよ。“
“………?”
“貴女の大事なものを思い出したいのなら……砂粒の声に耳を澄ませてください。“
それだけでいいのですよ、と。
意味深な言葉を残して、風龍は去っていった。びゅうん、と楽器のような音が少女の耳元を通り過ぎる……と思ったら、星の渦とちりを巻き上げ、キラキラと尾を引きながら、闇の中を一陣の風が駆け抜けてゆく。
あっという間に去ってしまった星の川の風龍の跡を、少女はぼんやりと眺めていた。
「………。」
ゆっくりと。
赤い服の少女が、暗闇に明滅する銀砂の上に手をつく。そして、鹿の子が地面の音を聴こうとする時のように、そっと頭を下げて耳を近づける。
地面の下の何かに耳を澄ませるように、少女は静かに目を閉じた。
そして………
少女の唇の端が、わずかに上がる。
眠るような安らかな笑顔。
それは……失ったはずの思い出を取り戻した少女の、驚きと幸福に満ち満ちた心、そのものだった。
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