大雪原の落としモノ

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大雪原の落としモノ

                〈大雪原・北部〉 「あれ、ない」  ポケットに手を突っ込んで、激しく掻き回す。小さい空間の中では、すぐに手は壁にぶつかって、何もないことが一瞬で分かる。ポケットを諦め、ため息をつきながら、今度は自分のまわりを見てみる。白い雪をかき分けながら、自分の体付近だけを探す。どこにも跡はないし、感触もない。諦めて、自分の歩いてきた背中を、勢いよく振り返った。 「これは…無理か」  見渡す限りの雪景色。地面は白く覆われていて、そこから何センチもの高さに積もっている。  もし何かを落とした時に、見つかるはずがないと絶望するような場所は、世界にいくつもある。薄暗い洞窟や、果てしない砂漠、密林のジャングル。そんな全ての気力を削ぐような場所。きっと僕が今いる場所も、それのひとつ。  僕が落とし物をしたのは、どこまでも白く眩しく広がっている、大雪原だった。舌打ちを何度もしながら、来た道を戻っていく。真っ白な大雪原に埋もれてしまう前に、見つけ出さなければ。         〈大雪原・南部〉  雪上を滑っている時が、一番楽しい。そう思い始めたのは大学生の頃で、いわゆるサークルでスキーやスノボに行きまくっていた、あの頃だ。  そんな当時の興奮は、大人になった今でも続いていて、こんな大雪原にまで一人でスキーをしに来ていた。雪混じりの風を顔に浴びながら、壮大な景色を眺める。やっぱり、スキーは最高だ。いい感じの眺めになりそうな位置に来たところで、積雪を弾きながら、板を止める。ゴーグルを取り、生の眼で見渡す。 「ふぅううう!」 人の気配はないので、思い切り叫んでやった。清々しい。なんとなく手袋も外して、開放感を増やした。写真でも撮ろうかとポケットに手を入れる。すると、中には何も入っていなかった。途端に焦りが身体中を走る。慌てて反対のポケット、身の回り、来た道を振り返る。どこにも、そんな跡はない。少しの、毛のようなものが落ちているだけだった。 「やっちまったなぁ…」  情けない声を漏らして、再び滑り出した。俺は切り替えるのが早い。まわりにもよく言われる。だからさっさと諦めて、今は目の前の快楽に溺れよう。そんな風に切り替えて、また、雪混じりの風を浴びた。         〈大雪原・東部〉  私は老後を、この大雪原で過ごすと決めていた。小さい頃から雪が大好きで、雪が降るたびに興奮しては、遊び疲れていた。理由は分からない。とにかく、雪は他のどんなものより、私を魅了した。 「ああ、いい景色じゃ」  大雪原東部にポツンと建っている小屋の外に出て、はるか遠くまで伸びている白景色を眺める。白という、このキャンバスのような一面。雪の上では何をしてもいい、でもすぐにバレてしまうよ。そう言わんばかりの、白。 「 一服でも、するかのう」  切り株に腰掛けているズボンのポケットに手を突っ込むが、感触がない。たしかに入れたはずだったのに、ポケットの中は綺麗さっぱりだ。 「ボケがきたかのう」  最近になり、要所要所で感じる、老い。皺の増えてきた手をさすりながら、小屋へと戻る。扉を開けようとした瞬間、遠くにある林、ともいえないくらいの木の密集地から、音が聞こえた、ような気がした。         〈大雪原・西部〉 「くそ…あいつ…」  珍しくあいつに呼ばれたと思ったら、これだ。あいつが僕に何の因縁があるのか知らないが、昔から突っかかってくるのにも、限度がある。今回で終わりにしよう、そう思っていたのに。 「熱い、熱い…」  こんなにも白く、凍えるような大雪原の中で、僕の切り落とされた右手の断面は、熱く熱く燃えたぎるようだった。必死に歯を食いしばり、全てを耐える。おそらく、もう何時間も持たない。それでも、今できるのは、耐えることしかなかった。こんな広い大雪原なんかじゃ、助けも何も、あるはずがない。すると、何かが、聞こえてきた。 「…なんだ?」  間違いなく、倒れ込んでいる僕の背後で、物音がしている。しかも、漁るような、物を引っ掻き回すような、音。無理矢理に、顔を後ろへ向ける。朦朧としてきた瞼を開いて、姿を確認する。するとその影は、慌てたように遠くへ走り去ってしまった。そこには、散々にされている、僕のカバンだけが置いてあった。さっき走り去って行った影は、何だったのだろう。人間ではない、何か小さくてすばしっこいもののように、見えた。まあそれも、関係ない。僕の意識は、何が起ころうとも、だんだんと薄まっていくのだ。       〈大雪原・木の密集地〉  息を切らしながら、いつもの切り株に腰掛ける。今日も、四人の人間から物を盗むことに成功した。この大雪原での盗みも、だいぶと板につくようになってきた。  オレは元々、もっと遠くにある山の中で、同じような猿の群れと共に暮らしていた。 「てめえ。手癖が悪いんだよ」  群れの皆からは、いつもそんなことを言われていた。たしかにその通りだった。オレは手癖が悪くて、まわりの猿たちが取ってきた食糧を、よく盗んでいた。怒られるたびに、オレは考えた。なんで手癖が悪いと怒られてしまうのか。答えは簡単だった。  盗んだことが、バレてしまうからだ。  バレなければ、それはただの本人の失態、つまりは"なくした"という状態に帰結される。そう気づいてから、オレは盗みの腕を上げた。最初の方はもちろん疑われたが、オレから証拠が一切出ないことが続いて、群れの皆も、だんだんオレを疑わなくなっていった。森には何かが潜んでいるなんて噂も出始めた。オレはそれが気持ちよかった。  もう森に用はないと思い、オレはこの大雪原にやってきた。ここで、ひとりで、盗みだけで暮らしていく。そう決めてから半年間。今日まで、うまくやってきた。この大雪原には、人間がちらほら現れる。東の方には人間も一人住んでいて、そいつからは定期的に盗んでいる。  人間が現れる度に、オレは背後から忍び寄り、ポケットの中身や、バックの中身を盗んだ。食糧があれば食うし、よく分からないものは、この木の密集地に集めておくことにした。おかげで、いくつもの物体が積み重なっている。  今日盗んできたモノたちを、袋から取り出そうとすると、何か濡れていることに気づいた。それは雪や、水の濡れ方とは違っていた。何やら、べとべととしたような、鉄のような匂いのする、濡れ具合。オレの視界は白黒なので、よく分からない。少しの不快感を抱えながら、袋の中身を出していく。ビスケット。タバコ。四角い機械。それと。  最後の一つを、ゆっくりと自分の手に乗せて、じっくりと眺めてみる。べとべとの元はこいつだ。キンキンとした鉄の匂いが、鼻を強く刺す。  それは間違いなく、手だった。オレの手とも似ている、けど少し違う。きっとこれは、人間の手。何度も見てきた。毛がなくて、五本指で、爪がしっかりと生えている。なんで、人間の手がこんなところにあるんだろう。首を傾げながら眺めていると、近くから、木をかき分けるような音が、乱暴に響いてきた。慌てて、振り返る。 「やあ。お猿さん」  人間だ。しかもこいつは、今日オレが盗みを働いた人間のひとり。たしか、北部で見かけた。 「泥棒はダメでしょ。ねえ」    人間が、確実にオレの元へ近づいてくる。逃げようにも、なんだか逃げられなかった。この人間の目は、どうにも鋭くて、どうにも恐ろしい。 「でも惜しかったよ。僕も最初は見当もつかなかった。こんな真っ白な大雪原で、落としモノなんかしたら、見つかるはずないってね」  この人間の目は、昔、オレがどこかの家で飼われていた頃の飼い主の目と、よく似ている。逃がしてやらない。そうやっていくらでも押さえつけてくる、高圧的な目。 「でもね、こんな真っ白な大雪原だからこそ、僕はここまで辿り着くことができたんだ。お猿さんは、その血には気づかなかったのかな?」  人間の指が、オレの持つ手を指さしている。気持ちの悪い温度だ。こんなに寒い大雪原の中で、この人間の手は、ギリギリのところで温度を保ち続けている。どうにも、投げ捨ててしまいたい。 「この大雪原で目印になるのは、色なんだ。白くて綺麗な、キャンバスみたいな大雪原。そんな上に赤い血の一滴でも垂れていたら、そりゃ見つかっちゃうよね。当然さ」  オレはもう耐えきれなくなって、人間の手を、近づいてくる人間に向かって投げつけた。ふんわりと弧を描いて、ぽとん、なんて音を立てて、人間の足元に落ちる。人間は、のんびりとその手を拾った。そして、オレを見つめてくる。 「この手を使ってね、僕もこれから盗みをするんだよ。お猿さんは知らないだろうけど、人間世界では、指紋認証なんてモノが流行っててね」  人間は、背中を向けて帰っていく。鉄の匂いのする手からは、何かが垂れ続けている。背中を向けて進みながら、人間はまた、口を開いた。 「盗みのコツは、バレないことだよね」  ずっと、何を言っているかなんて分からなかった。それでも、オレは安心していた。きっとあの人間は、奇妙なことを言っているに違いない。聞こえなくてよかったと、猿であるこの体に、生まれて初めて感謝をしていた。盗みは、少し休もう。そんな消極的なことさえも、オレは、生まれて初めて思っていた。
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