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六畳の居間。四畳の寝室。お風呂とトイレは別で、台所は狭いけど一応独立している。
小さくて古い木造アパート。幼い頃は壁を擦るとサラサラでキラキラの土が指につくのが楽しくて、しょっちゅうザラザラ触っては母ちゃんに怒られていた。
「――蒼」
そんな懐かしい記憶に思いを馳せていたら、母ちゃんの声がして我に返る。
目の前には、緊張しているらしい、硬い表情の男が一人。大人の男が一人増えただけで、家の中が随分狭苦しく感じられるものだ。
「ごめん。何の話だっけ」
「うん。……あのね。お母さん、……その。……赤ちゃんが出来たの」
「…………あぁ、うん。そっか」
「それでね」
「……美代さん。オレが」
そうか、そうね。
優しく微笑った母ちゃんが酷く綺麗で、全然知らない人みたいに見える。
だいたい、母ちゃんの名前は美代子なのに。「美代さん」だなんて。随分親しげだ。
――何を言ったって覆らない展開じゃないか。
「初めまして、蒼くん。林田尚登と言います。みよ、……お母さんとは、二年くらい前から、お付き合いさせてもらっていたんだ」
「……そうですか」
「それでその……。順番が色々逆になってしまったというか……君にはもっと早くに報告しないといけなかったのに、申し訳ないんだけど。……お母さんと、結婚したいと思っていて。君の、」
「――母さんを、よろしくお願いします」
父ちゃんの顔は覚えてない。オレが二歳の時に死んだんだそうだ。小さいオレを抱っこして、イタズラっ子みたいな顔して笑う父ちゃんの写真は、今もすぐそこに飾ってあるから、知ってるけど、覚えてない。
だからこそ、父ちゃんは父ちゃんだけでいい。
お父さんなんて、欲しいと思ったこともない。
言葉を遮ってぺっこり頭を下げたら、「あ、……はいっ」と随分間抜けな間の後で、オレよりも深々と頭を下げたその人のことは、きっと悪い人じゃないんだろうとは思った。
受け入れられるかどうかは、また別の話として。
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