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57- 33階にて
待ち合わせのレストランは、ホテルの33階にあった。
天井が高く壁一面がガラス張りで、夕暮れを過ぎた紺色の空と、ネオンが灯り始めた東京の街並みを一望できる、とてもゴージャスで上質な空間だった。
<あ、…暎臣さんのご両親て何者なの…!?>
エレベーターで一気に33階まで上がってきたので、高低差で耳の奥に違和感があるのをどうにかやり過ごしながら、いつも通りの表情の滝川さんの横顔を盗み見る。
まるで来慣れている感じがしたので、思わず、
「いつもここなの?」
と聞くと、滝川さんは小さく苦笑した。
「まさか。初めて来たよ」
初めて来たとは思えないくらい、この都会的で洗練された空間に馴染みまくっているのは何故だろう。
<でも、初めて話した時からそうだったっけ…>
飲み会で個室居酒屋にいた時の違和感を思い出し、こういうことか、と妙に納得してしまった。
アテンドしてくれるスタッフも上品で落ち着いていて、いつもなら内心でビビりまくるところだけど、前をゆったりと歩く滝川さんを見ていると、自然と心が落ち着いてくる。
案内された窓際の4人がけのテーブル席には、ご両親がすでに来て待っていて、あたし達に気付いてわざわざ椅子を立って迎えてくれた。
「ーー暎臣、つかさちゃん」
一目見ただけで会社の上役だろうと分かる、落ち着いた物腰の男性と、家庭的と言うよりはキャリアウーマンと言う言葉がぴったりな印象の、とても綺麗な女性。
あたしの両親と年齢はそう変わらないのだろうけど、2人を取り囲む雰囲気が全然違う。やはり、滝川さんのご両親だと思う空気感。
<この2人が…暎臣さんのご両親>
初めてで緊張してしまうところだけど、名前を親しげに呼んでくれて、心の中がじわりと暖かくなった。
ペコリと頭を下げる。
「初めまして。暎臣さんとお付き合いをさせていただいています、冴木つかさです」
これだけは間違えずに言いたくて、昨日何度も練習したセリフだ。
すると、あたしが頭を上げる前から、お母さんがあたしのそばまで近寄り、「そんなにかしこまらなくていいのよ」と、優しくあたしの背中を撫でてくれた。
顔を上げて、間近に目が合う。滝川さんと同じ、綺麗で澄んだ、優しい瞳。
「初めてで緊張するわよね。でも大丈夫よ、今日は一緒に来てくれてありがとうね」
ニコニコと、滝川さんと同じ顔で微笑まれて、どうにも胸がキュンキュンして苦しい。滝川さんは母親似と聞いていたけれど、こんなに似ているとは思わなかった。しかも、滝川さんより笑顔が多くて、うっかりすると見惚れて目が離せない。
ドギマギしながら勧められた椅子に座り、滝川さんもその隣に座る。ふと滝川さんの視線に気づいて顔を向けると、「大丈夫だよ」と優しく微笑まれた。
それにホッと安心しかけて、手土産を持ってきたことをハッと思い出した。
「ーーあ、あの、あたし神戸の出身なんですけど、よかったらお近づきのしるしに…あたしも好きで、ずっと食べているお店の焼き菓子なんですけど」
折角勧められて座った椅子をまた立ち、荷物入れに入れた紙袋を再び取り出し、隣のお母さんに渡す。
タイミングを間違えたと頭の中で焦りまくったが、お母さんとお父さんは、顔を見合わせて「まあ嬉しい!」と笑顔で受け取ってくれた。
「ご出身は神戸なのね。何度か旅行で行ったことがあるけど、とてもいいところよね。色々地元のお話聞きたいわ。お土産もありがとう、2人で大切にいただくわね」
お母さんの返事が完璧すぎて、焦って一杯一杯になっていたせいもあってうっかり涙が込み上げてくる。
それを瞬きで散らして、「お口に合えばいいんですけど」と、言い慣れない言葉を辿々しく返した。
二言、三言喋っただけで分かる、物腰の穏やかさと上品さ、言葉遣いの綺麗さ。
それが余所行きに取り繕った感じではなく、その人の心根から自然と滲み出るような温かさを感じるから、緊張はするけど、全然怖くはない。
「改めて自己紹介しようか。暎臣の父の重宣です。どこまで聞いてるかな。こっちは母親の舞子」
「母の舞子です。つかさちゃんは、暎臣と同じ大学の2年生なのよね?」
お父さんが「どこまで聞いてるか」と言ったが、あたしも滝川さんがご両親にあたしのことをどこまで話しているのか聞いていない。さっきエレベーターに乗っている間に、お父さんは地元の医療機器メーカー勤務、お母さんは金融系事務という事だけは聞いていたけれど。
チラ、と滝川さんを見ると、どういう意味か分からないがニコッとまた微笑まれた。
「あ、はい。文学部の国文科です」
「暎臣とは、どこで? 大学ではずっと研究室に篭りっぱなしって聞いてたから、どこでこんな可愛い子と知り合ったのか不思議だわ」
「それは嘘じゃないよ。つかさは、俺がよく行くドラッグストアの店員なの」
馴れ初めを聞かれて、急に色々と思い出して恥ずかしくなってくる。頬が熱いな、と思っていると、傍から前菜のプレートがスッと出てきた。
<前菜…お洒落すぎない?>
何気なくプレートを見て、思わずそのアーティスティックな盛り付けに目が釘付けになった。
でも、あたしを除く3人は見慣れているかのように、スタッフがサーブするお皿を一瞥しただけで、会話を続けている。
それから暎臣さんは、あたしがこの空気に慣れるまで率先して自分から喋ってくれた。バイト先に稜平がいて、よく行くこと。あたしが忙しくても笑顔を絶やさず頑張っていること。自分がインターンで夜の帰りが遅かった時は、晩御飯を作っておいたこと。
すかさず、「料理が得意なの?」と聞かれたので、「頑張っているところです」と慌てて答えた。
「俺は上手いと思うよ。手際がいいし、なんか、ちょうどいい味付けっていうか。母さんより上手いんじゃない」
「ちょっと、暎臣さん!ハードル上げないで」
「暎臣、いい子見つけたわね」
「でしょ」
と、ニコニコするお母さんに向かって、自慢げに言うから、あたしはもう内心でドタバタと慌てるしかない。
「あの暎臣が惚気ねぇ。中学も高校も、彼女が出来てもしれーっとしてたのに。大学に入ってからは離れて暮らしてるから分からないけど、この子は恋人を本当に大切にできるんだろうかって心配してたのにね」
なかなかに辛辣な言葉を母親に投げかけられるが、滝川さんはそれも涼しげに受け流して白ワインのグラスを口元に運ぶ。
「ひどいな。まあ、惚気たのはつかさと付き合ってからだけど。俺たち今バカップルって言われてるからね」
「それは、暎臣さんがあたしのいないところでもあれこれ言ってるからでしょ」
「だって言いたくなるんだもん。可愛すぎて」
「………」
親の前でも言うのか、とあたしはもう黙って赤面するしかない。
ナイフとフォークを持ったまま、ご両親にどんな顔で目を合わせればいいのか分からず固まっていると、向かいで「はっはっは」と言う豪快な笑い声が飛んできた。
「暎臣、お前本当に暎臣か?面白すぎるな」
「父さん、笑いすぎだよ」
「諒臣がこの場にいたら卒倒してるかもしれないな」
諒臣とは、滝川さんのお兄さんのことだ。仲良くしているお兄さんでさえ卒倒するなんて。
「あの、暎臣さんって、昔からそんなにクールだったんですか?」
「クールって言うかねぇ。年が離れた兄がいたせいか、年齢の割に大人びているというか、落ち着いてて、感情が全く読めない子でね。怒らないし泣きもしないけど、特段はしゃいだりもしない子だったんだよね」
「嫌なことは嫌って言うし、分かりにくい子というよりは、やっぱり落ち着いた子、冷静な子っていうのが正しいわね」
両親が顔を見合わせながら言う答えに、滝川さんがやや不満そうに眉を寄せる。
「なんか極端な言い方だけど、俺別に笑ったりもしてたよ。写真でも笑ってるじゃん、いつも」
「そういえばそうね。なんでなのかしらね」
お母さんのキョトンとした表情が可愛くて、あたしは思わずくすくすと笑ってしまった。
「あたしも最初、クールさが際立ってて近寄りがたいのかなって思ってましたけど、でもすごく喋ってくれるし、笑ってくれるし。感情も分かりやすいなって、今は思うようになりました。これは仲良くなった人だけの特権だなって」
レジでお決まりの会話だけをしていた関係から、居酒屋で「会うのが初めてじゃない」と言う会話をした時のことを思い出すと、自然と口元がほころんだ。
ーーどんな顔をしたらいいのか分からなくて。
あの時の、滝川さんの唯一の不器用な言葉が、今となっては愛おしくて仕方がない。
付き合ってからの滝川さんは、あたしの中の不安を全部綺麗に消し去ってくれるほどの言葉と態度を示してくれるから。
「今のあたしには、すごく感情豊かに見えます」
笑顔で2人に振り向く。
「暎臣、本当にいい子を見つけたわね」
お母さんが、あたしを眩しそうに見つめながら、滝川さんに言葉を向ける。
「ーーでしょ」
さっきと同じように返したけれど、声が少し掠れていて、視線をそちらに向けると、少し気まずそうな滝川さんの横顔が見えた。
「…照れる暎臣も初めて見たなぁ」
と、お父さんがしみじみと楽しそうに呟くので、滝川さんはとうとう「もう放っておいて」と子供みたいなセリフを呟き、また両親の笑いを誘ったのだった。
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