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「別れたの」
翌日、美織と3人で晩御飯に行って席について早々、鷺原さんは切り出した。
いつもの緩い語尾が、ぴりりと引き締まっている。浮かない顔で、テーブルの一点を見つめたまま、昨日のあたしとは比べ物にならないくらいぼんやりとしていた。
美織と、そんな話かもしれないと、言葉にはせずとも察していただけに、驚きはしないが言葉も出てこない。
「…インターンの同期の中にね、浮気してた子がいたんだって。こないだ一緒に遊びたいって言って、飲み会に連れてってもらったんだけど、なんか行く前からよそよそしかったから変だなとは思ってたんだけど…」
周りのテーブルの話し声に消えそうなくらい、弱弱しい声で話してくれる。
あたしと美織は黙って目を合わせる。美織がそうっと鷺原さんの肩に手を掛けた。
「悠乃」
「悠乃ちゃん」
鷺原さんの声は、裏切りに対して怒っている風でも、ショックを受けて悲しんでいる風でもなく、ただ淡々としている。
それが余計に胸が痛い。自分で「淡白だから」と言っていたけど、今は「淡白」キャラを装わなくてもいいのに。
「――悠乃ちゃんから切り出したの?稲村さんから?」
「向こうが明らかに変だったから、あたしから問い詰めた。そしたら、何も責めてないのに『ごめん!』だって。もう何も聞く気なくなっちゃったよね。勝手に向こうから喋って来たけど」
店員が運んできたレモンチューハイを片手に、鷺原さんが自嘲気味に口元を小さくゆがめた。
初めて見る顔で、思わずドキリとした。
「…稲村さんってさぁ、そんな、浮気とかするタイプだったんだね」
「ねー。あたしもびっくり。あたしが気付かない振り続けてたら、自分からは言わなかったのかなって思うよ。あたしが行くまで全然、ほんとにふっつーだったから」
鷺原さんの言葉に、思わずゾッと背筋が凍った。
そこまで仲は良くなくても、一緒にグランピングして夏の思い出を作った仲だ。鷺原さんに対しては特にずっと優しかったし、大切にしてるんだろうなと、見ていて思っていたのに。
たった1か月足らずのインターンで、そこまで関係が変化してしまうことに、果てしない気持ちになった。
「インターンでこれなら、大学でいくら一緒にいても、卒業したらもう全然分かんないよね。どうなるかなんて。出会いなんて腐るほど転がってるんだから」
半分投げやりな口調で言いながら、鷺原さんがチューハイをごくごくと飲む。あたしも今日は一緒に飲みたかったが、生理で酔いが回りやすいのでオレンジジュースにしていた。そのことを後悔するぐらい、鷺原さんの雰囲気がいつもと違うことが心配だった。
「そうだよね…。会社に入ったら朝から晩まで会社だもんね。家にいるより長い時間いるんだもん。そこに仲のいい女子がいたら、どうなるかなんて分かんないよね。もう、同じ会社で見張るしかない」
鷺原さんの言葉に、美織は自分を重ねて同意する。
美織は来年の春には桐谷さんと同棲予定で、きっと大きな心配事はもうないのだろうと思っていたけど、それでも心配は尽きないのだ。
<心配か…>
自分が今、なんの心配事もないことが奇跡だなと思う。それも全部、滝川さんがその種を潰してくれているからだ。本当なら今頃、あたしも二人と同じようなことで心配して悩んでいるかもしれなかったのに。
環境が変わることは、思わぬところにまで変化をもたらす可能性があるということ。
「でもそんなこと無理だもんなー。年も違うし、多分同じ会社に行くって言ったら引かれるやつ」
「つかさちゃんのところは大丈夫? オミ先輩だから大丈夫か…」
鷺原さんの質問に答えようとして、美織が口を挟んだ。
「あーつかさのところは大丈夫。こないだ、オミ先輩の親とご飯食べてたし」
「えっ!? 顔合わせ的な?」
「や、そんな大したものじゃないよ、たまたま、東京観光に来てるからどうかって話だったし」
もしかしたらそれ以上の意味もあったかもしれないけど、滝川さんが直接何も言わないのだから、そのことに対して自分の中であまり深く考えるのは避けていた。
期待はしてしまうけど、実際はどうなるかなんて、まだ分からないことだから。
<あれ、でもあたしも、そう思ってるんだな>
どうなるかは、まだ分からない。でも、それがそんなに不安ではない。
滝川さんが不安にならないように言葉や態度を尽くしてくれていることはもちろんだけど、それは、そんな滝川さんを信じられる自分でいられるから。
「…あたしも同じだよ。オミ先輩が大学院に行って、そこから就職して…あたしもまだ就活これからだし、落ち着くのはいつ?って感じだよ。でもそれに囚われすぎずにいたいじゃん」
まだ直面もしていない先の不安に、今から怯えていてもしょうがない。
「不安があるなら、それを消す努力はしたいよね。前向きに考えていきたいから」
「――つかさ、今色々動いてるもんね。ジムとか、英会話とか」
そうなのだ。あたしが今、そこまで不安にとらわれていないのは、自分ができることをやっているから。
滝川さんの隣に自信をもって並んでいたくてやっていることが、いつの間にか不安な自分を消し去ってくれていた。
「続くかなと思ってたけど、なんとか続いてるし、楽しいし、世界が広がるし。まだもっと別の新しいこととか、してみたいなって思うようになったよ」
「新しいことかぁ…」
「とりあえずでも、動くことには意味があるよ。後から意味が追い付いてくるっていうか。失敗しても、また次の事考えればいいんだし。そうやってじたばたすることも、結果的には自分自身のためになってるよ」
鷺原さんも美織も、黙ってあたしの話すことを聞いてくれている。
思わず熱く語ってしまったことに我に返り、2人を見た。
「――えっと、だから、悠乃ちゃんも一緒にジム行ってみる?」
話の結末をそこに落ち着けたかったわけではないけど、咄嗟に出た言葉に2人が噴きだした。
「そこ?話のオチそこ?」
「つかさちゃん、今のジムの勧誘話だったの?」
「うーん…」
違うけど違うとも言えず、微妙に唸ってしまった。でも、それで鷺原さんが笑ってくれたから、この話はしてよかったと思うことにする。
「まあでも、稲村さんは絶対後悔するよ。悠乃と別れたこと」
と、辛辣な言葉を呟いて美織がワインを飲む。
「ほんとに~。あたしくらいの巨乳でいい女なんて、そうそういないよ」
美織につられてか、いつも通りのペースが戻って来た鷺原さんも中々の言葉を吐いている。
「ちなみに、その浮気相手、巨乳?」
「え~普通だったかな~。脱いだらどうなのか知らないけど」
「えーキモい。自分の彼氏とどうこうしてる女なんか」
「美織が聞いてきたんじゃ~ん」
「や、そこまで被ってるかどうかは分からないじゃん」
言いたい放題になってきた2人を慌てて止めるが、お酒も回った猛者たちは揺るがない。
「だって彼女持ちって分かっててちょっかい掛ける、普通?その時点でアウトだわ。しかもインターンなんて、まだ内定もしてないのにさ。大学も別だし、絶対すぐ別れるわ」
「結局その女よりイナちゃんが後悔するパターンかもね~」
「悠乃、また稲村さんから連絡来ても受け入れたら駄目よ」
「分かってるって。その頃にはあたしもつかさちゃんと一緒にジム通って、今よりスタイル磨いとくんだから。いい女だな~って指くわえさせるんだから」
鷺原さんと美織の会話はあたしには過激でついて行けなかったが、鷺原さんが最終的に前向きに笑ってくれているので、それはそれでよしとすることにした。
「はースッキリした。スッキリしたらお腹空いてきた、ご飯食べよ」
「よし食べよう、悠乃ちゃん、小皿取って」
「あたしはワインもう一杯飲も。すいませーん!」
そんなこんなで、あたしは昨日食欲がなかった反動で食に走り、美織と鷺原さんはお酒に走り、結局終電間際まで、稲村さんの愚痴や就活の愚痴で楽しく盛り上がったのだった。
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