1- 好きと憧れの人

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 それから数日後の金曜の夕方にも、例の彼はやってきた。 「いらっしゃいませー」  バイトには週3、4で入っているが、ひょっとして毎日来ているのかもしれないと思う頻度だ。  もちろん、それはあたしが認識しているからであって、彼と同じように頻繁に来ている客も他にはいるので、彼が特別ヘビーユーザーというわけではないのだが。  ちら、と壁の時計を見ると、20時を過ぎたばかり。いつも来る時間よりは少し遅いみたいだ。  この店の数メートル向こうにある大きな繁華街で飲み明かしたサラリーマン達が、もう少ししたら水やウコンを買いに混雑するけれど、まだ帰る時間ではないこの時間は比較的暇だ。  レジ周りの作業もなくて、両手を後ろで組んで立っていると、さっき入ってきたばかりの彼がいつの間にかレジの前にやってきた。  水を買っていくはずの彼が抱えていたのは、トイレットペーパーのロール2組。  えっ、と思ったが、水じゃないことに驚いているところは見せられない。「いらっしゃいませ」と言いながら、スキャナでJANを読み込み、会計ボタンを押す。いつもと違うものを買いに来たのが初めてで、咄嗟にいつもの段取りを忘れそうになってしまった。 「――現金で」  彼の発する言葉も違う。小銭入れのトレーに、彼がズボンの後ろポケットから小銭入れを出して、500円玉と100円玉をいくつか置いた。レジを開いて、差額のお釣りを手渡す。  そのお金を小銭入れに入れ、ポケットに突っ込むと、トイレットペーパーを両手で掴んでそのまま出口へ向かって行ってしまった。  <なんでトイレットペーパー買いに来たんだろう>  次の客もおらず、思わず彼の後姿を見送ってしまう。  それに、今日は「ありがと」をもらっていない。少し残念だけど、なんだか急いでいる風だったのでしょうがない。そのまま出口を出て姿が見えなくなると思った彼が、急にくるりと体を翻してもう一度こちらに向かってきた。  ぼんやりと彼の背中を見つめていたあたしに気付いて、彼と目が合う。 「!」  まさか目が合うと思っていなくて、一瞬どんな反応をしていいか分からなくて固まってしまった。そうこうするうちに、彼があたしの前に戻ってきた。見つめていたのは気付いていないようだ。 「ごめん、さっきのレシート、まだあるかな」  と、少しハスキーで甘い声で話しかけられる。 「え、えっと」  言われて、慌てて先ほどレジから吐き出されたばかりのレシートを探した。さっきの会計の後、誰も来ていないのでレシートは一番上にあった。  それを手渡すと、その彼が少し安堵したように息を吐く。 「よかった、経費で落ちないところだった」  独り言とも言えなくないことを言い、あたしを見てニコリと笑う。 「経費」  トイレットペーパーは、どうやら「経費」で落とすべきものだったらしい。よく見れば、いつもの綺麗めな私服ではなく、何かの制服っぽい黒いYシャツと黒いチノパンを履いている。ひょっとしてバイト中だったのかもしれない。 「ありがと」  そうして、いつもの綺麗な微笑を、今日に限ってしっかりと向けてくれた。  思わずこちらのお礼も言い忘れて、その微笑に見とれる。好きだった俳優に、テレビ越しじゃなくて直接笑顔を向けられたような気分。  ぱちくり、と目を見開いたままのあたしを見て、彼がもう一度笑い、レシートをひらりと持ち上げて、今度こそお店を出て行った。  あたしはその姿が見えなくなっても、その笑顔の衝撃にしばらく動くことができなかった。
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