2- setting

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「いらっしゃいませー」  化粧品売り場から、ドアから入ってくる客に条件反射で声を掛けていたあたしに、レジに入っていた後輩の中森さんが「ちょっと冴木さん」と呼んだ。  少し距離が離れていたので近付いていくと、喋っているのを隠すように手を口元に添えた顔が、やや半笑いだった。 「今日声のトーンおかしいんですけど」 「あ、分かる?ごめん、テンション上げるね」  真顔で言うと、それも可笑しかったのか、中森さんがあははと笑った。  バイトでしか会わない後輩にもバレるくらい、テンションが低いのは自覚している。  <美織の奴>  ――いーじゃん、つかさは稜平さん狙いって皆にも言っとくからさ。  昼間のカフェで、美織は勢いのまま稜平にコンパの約束を取り付けてしまった。まさか稜平にまでコンパを開かせるとは思ってもなかった。完全に油断した。  硬直していたあたしをよそに、意外にも稜平はあっさりと「いいよ」と言った。知り合いが多い稜平だから、すぐに彼女が欲しい男子は集められるのかもしれない。稜平が彼女が欲しいのかどうかは、その場では聞けなかったが。   <…彼女欲しいのかなぁー>  そんな話は一切したことがない。  それは、お互いが避けているというわけではなく、他の話題が豊富だったから。敢えて恋愛話をするほど話題に困っていなかったのだ。いつかそれとなく知りたいなと思ってはいたけれど、まさかそれがこのタイミング、こんな形でなんて。  知り合いが多くて出会いの場なんて作らなくても、彼女なんて自然に出来るタイプの人だと思っていたからか、稜平とコンパという組み合わせがどうにも結びつかない。  化粧品売り場で一人でうんうん唸っていると、店内のどこからか男の人の怒号が響いた。 「お前じゃ話にならん!店長出せ!」  びく、として後ろを振り返る。近くで買い物をしていた中年の女性が、立ち止まって今の怒声に耳を澄ませている。  <あ、やばい>  怒号を発した男性の姿は見えないが、どこかでトラブルが発生したことはすぐに分かった。  化粧品の在庫表のファイルを閉じてカウンター下の棚に押し込んでいると、レジの方から中森さんが泣きそうな顔で走ってきた。 「さ、冴木さぁん」  中森さんの両腕を支えるように持ち、何が起きたのかを手短に説明してもらった。どうやらレジで提示した紙のクーポンが、電子クーポンより割引率が低くて納得いかないらしい。対応として店舗アプリをスマホに入れていないので入れてもらおうとしたが、上手くいかなくてイライラしてキレたとのことだった。 「店長は?稜平さんとか」 「店長は本社と電話中で、稜平さんは隣駅まで取り寄せ商品の配達中でいません~」  あたしは呆気に取られてしまった。他に対応できる社員は他の接客中で、バイトの先輩は他にいない。今日に限って人が少ない。つまりあたししかいない。  一瞬うろたえたが、目の前で涙を堪えて震える中森さんを見て肚をくくった。 「中森さん、店長にメモ渡しといてね」  中森さんの震える腕を少しだけ力を込めて掴んで離し、男性が待っているであろうレジの方へ行く。  無人のレジのそばに、明らかに苛立って顔をしかめている60代くらいの男性が立って腕組みをしていた。くしゃくしゃのクーポンチラシと頭痛薬をレジの上に放り投げている。あたしはその人の横に立って、思いっきり頭を下げた。 「お客様、ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」  お客様対応なんか、この半年間でやったことはない。研修の時に少しだけ対応方法を教えてもらったが、結局社員が全て対応してくれていたので、これが初めてだ。頭の中で見たはずのマニュアルの記憶を呼び起こそうとしたけれど、緊張で上手く思い出せない。少し離れたところで高齢の客に対応していた社員さんが、心配そうにこちらをチラチラ見てきているのに気付いた。それで、その社員さんが前に対応していた様子を思い出した。  <まずは、話を聞くんだ>  突然謝ってきたあたしを見て、男性が不審そうな顔を向けてくる。 「…電子クーポンと、紙のクーポンで割引率が違うことが納得できないということで」 「――おう。それでさっきスマホにアプリ入れろって言われて入れた。それでいいじゃねえか、なんでわざわざ住所やら電話番号やら登録がいるんだ。入れたんだからそれでいいだろうが」  あたしにも話をしてくれたので少しほっとしたが、男性は話しながらどんどんヒートアップして、最後はまた怒号のような声で畳みかけてきた。 「おたくの店は若者向けのサービスばっかり充実させて、俺らのような高齢者は知らんぷりか。あんただってスマホも使いこなせない高齢者にわざわざアプリだなんだって進めてこないしなあ」 「それは、こちらの案内が行き届いておりませんでした」 「選んでるんだろうが客を。あん?」 「いいえ、決してそのようなことはございません」  男性の大きな圧力のある声に、返事をする声が小さく震えそうになるが、どうにかお腹から声を出す。 「そう言えって教育されてんのか?だいたい店長出せって言ってるのに、お前なんだ。バイトだろうが。お前が店長か?」  だらり、と額に汗が伝う心地がした。  他の客が一定距離を置いてこちらを伺っているのが分かる。延々と責められるのを、怯えながら見つめている。あたしはひたすら頭を下げながら、店長の電話が終わるのを待った。 「申し訳ございません、店長は只今電話中でして」 「客のクレームより大事な電話があるのか!」 「申し訳ございません、すぐに呼んでまいりますので」 「だったらてめえが行け!てめえじゃ話にならんと何回言わせるんじゃ!」 「お客様、大変お待たせ致しました、店長の北村でございます」  その日一番の怒号を頭から浴びせられた直後、ふわりと布を被せるように店長の穏やかな声が降ってきた。  頭を上げると、白衣を着た恰幅のいい店長の北村さんが、あたしと男性の間に割って入るように立っていた。  男性は、偉い人が出てきたことでもうあたしなどは視界の端っこにも映らないようで、今度は店長にあれやこれやと食い掛り始めた。店長はそれをまろやかに対応しながら、事務所の方へと男性を移動させていった。  <さすが店長…>  びくともしない安心感をその背中に感じながら、その場に取り残されたあたしは二人が事務所まで消えていくのを見送った。  客もあたしも呆然としていたところへ、高齢客の接客が終わった社員さんが走ってきてくれる。あたしの背中を優しく撫でてくれながら、他の客へ「お買い物中に申し訳ございません」とにこやかに謝って回った。あたしも四方にぺこ、と頭を下げ、中森さんにもアイコンタクトを取ってから、元にいた化粧品売り場に戻る。  カウンターに入って、出しっぱなしにしていた作りかけのPOPを手に取ったところで、特大のため息が出た。年配の男性、どすの効いた低い大きな声でずっと責められ続けるのがこんなにつらいとは思わなかった。  <しんどい…>  しかも、結局店長が出てくるまでに男性の機嫌を落ち着かせることができなかった。あのタイミングで自分が出て行った意味がない。2重に落ち込む気分でその場に蹲りたくなったが、 「すみません」  不意に声を掛けられて、あたしはハッと我に返った。 「はい、なんでしょうか」  声を掛けてきた客に、今日一番意識して笑顔を作って振り向く。目の前に、黒地に濃いグレーの羽の模様が入ったシャツ。思いのほか背が高くて、あたしは視線を辿り、その顔を見上げた。  いつも水を買っていくあの彼が、なぜか化粧品売り場のカウンターに立っている。  <え?>  動揺しすぎて思わず彼を凝視してしまったが、彼もまたなぜかあたしを凝視してきていた。 「――あ、いや、…コットンどこですか」  先に我に返った彼が、鼻の下を人差し指で1、2度こすって目を逸らす。 「あ、コットン、ですね。ご案内します」  <なんだコットンか>  いつも水しか買わないので、なぜここにいるのかとびっくりしたが、理由が分かって納得する。コットンの場所まで案内すると、またいつもの笑顔で「ありがと」と御礼を言われた。怒号を浴びた直後だったので、優しい笑顔に後光が差して見える。それに笑顔で返しながら、さっきのため息を見られていないといいなと思った。
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