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西の迷いの霧の森
「はぁ。腹が減ったな」
行けども行けども霧の森。
もうどれだけ歩いたかわからない。
自分がどの辺りにいるのかもわからない。
そう。道に迷った。
普段ずっと机に向かっていて運動らしい運動などしていない自分にとって、10年分は歩いただろうと思われる。
ずっと同じ場所をグルグルと回っているだけかもしれないが、目印に結んだハンカチはまだ見ていないから進んでいると信じたい。
この森は、爺さんが生まれるよりも前、昔々のその昔からずうっと霧に覆われていると聞いている。
『あの森へ、一人で入ってはいけないよ。帰って来られなくなるからね』
そう言われて育ってきた。
迷信の類ではなく、実際に迷い込んだまま帰って来ない人がこれまでに何人もいる。
最近だと、この常に霧が消えない謎を解明するのだと言って、学者が森へ入ったまま帰って来ないとウワサに聞いていた。
それなのに迂闊に足を踏み入れたのは、心が疲れ、もう死んでもいい……などと半分自暴自棄になっていたからだ。
けれども実際に遭難して、本当に死ぬかもしれないと思い始めたら、不思議なものでこの身体はまだ生きたいと足掻いて前へ前へと歩いている。
視界は十歩程先まで。
時折、グォーグォーと何かが唸るような声が聞こえて震え上がる。この霧の中、突然熊や狼に襲われたら逃げる術はない。
まとわりつくような濃い霧は、時々風もないのにふわと揺らめく。
ゆらりと動く霧の中に人の顔が浮かんでは消えるような幻覚まで見えてきた。その中には、愛想を尽かされた妻と子供の顔も……。
『小説なんかで食べていけないでしょう!夢を追うのも良い加減にしてちょうだい』
『おとうさんのおはなし、つまんない』
浴びせられた言葉を思い出して胸が詰まる。
最後に食べた妻の料理はなんだった?
腹が減った。
喉も渇いた。
疲れて足が前に出ない。
そろそろ体力も限界だ。
もう座り込んで木の根元で眠ってしまおうか。
そう思って、幹に穴の空いた大きな木の根元に腰掛けた時、今度はすぐ近くから『グォーグォー』と恐ろしげな声が聞こえた。
驚いて立ち上がり、力の限り走った。体力は限界だと思っていたけれど、まだ走れた。
方角もわからないまま無我夢中で足を動かしていたら、急に霧が晴れた。
天から陽の光が注ぎ、まるでその場所だけ霧にぽっかりと穴があいたようだ。
ちょっとした広場ほどの霧の穴の中心には、大きな木の根本に半分埋もれるように、家が一軒佇んでいた。
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