3 苦学の人、日下部真琴

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3 苦学の人、日下部真琴

 日下部真琴(くさかべまこと)は近衛と同年の2030年、極貧家庭に生を享けた。  発端は2028年、債券格付け会社の〈ムーディーズ・インベスターズ・サービス〉が戯れに――のちに事実無根だったことが判明したので戯れだったとしか言いようがない――日本国債の格付けを一気に2ランクも下げたことだった。  外資系機関投資家の逃げ足は光速に迫る勢いであった。格付けの下方修正が発表された1時間後にはほぼすべての日本国債を売却し、一社残らず債券市場から姿を消していた。  国債の保有者はほとんどが日本国籍である。外国人はほんの一部にすぎない。本来であれば若干の値下がりですむはずだった。その代わりに起こったのは、情報化社会の悪夢と言えるような連鎖現象であった。  日本の機関投資家はAIによる超高速取引(HFT:High Frequency Trading)を標準的に利用しており、国債の値段が一定水準を下回るのを条件に自動売却するようプログラミングされていた。  外資系の売り逃げがその一定水準をほんのわずか、下回らせた。とある生命保険会社の保有国債がHFTの設定条件通り売却され始め、それが呼び水となってあらゆる機関投資家のHFTが暴走、国債は紙切れ同前と化した。  債券の値段が暴落すれば長期金利は跳ね上がる。日銀のイールドカーヴ・コントロールなどという姑息な手段はこの流れにとうてい太刀打ちできず、金利は最大57パーセントまで上昇し、借金体質の染みついていた日本企業は突如として天文学的な額に跳ねあがった利息に呆然とするばかりであった。燎原の火のごとく債務不履行(デフォルト)が日本列島を駆け巡った。  日下部真琴はこうした最中、両親が失業している家庭に生を享けたのである。  日下部は幼少のころ、まともな食事にありついた記憶がなかった。雪が降るだの降らないだのとかいう戯言はどこか遠くの国の話であった。一に食事、二に食事、四季の風情なんかは17あたりの優先順位である。  彼はすきっ腹を抱えながらも自助努力を怠らなかった。通っている公立学校は似たような境遇の子どもたちで溢れ返っており、給食の時間はさながら進化論が説く適者生存の実地観察現場であった。  当然授業は常時崩壊しており、教師も匙を投げていたのであるが、日下部は投げなかった。彼は小学二年生にして教育の大切さを両親から(反面教師的に)学び、ひたすら独学でカリキュラムをこなしていった。  時代錯誤の熱血教師に巡り会うという僥倖も手伝い、日下部の学力は頭一つ飛び抜けるようになった。彼が中学を卒業するあたりになるとさしもの日本経済も持ち直していたものの、両親は生活保護漬けのせいで堕落したままであった。  日下部は高校、大学ともに返済不要の特待生奨学金を勝ち取り、己の力だけで学業を完遂した。そのまま大学に残り、依然としてホットな分野であった地球温暖化研究に従事することとなる。  博士課程に進んだころ、日下部は不穏な連中が跳梁跋扈していることに気づく。  彼らは環境保護原理主義者と呼ばれていた。
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