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4節 夢を見る
どちらにせよ、完成したら持っていこうと考えていたのだ。手間が省けた。私は焼きたての二十個を格子状の網に移しながら答えた。
「胡桃沢家のポルボロンを作っているの。あとは粗熱を取って粉砂糖をまぶすだけだよ」
「そうか、あれか」
横目で様子をうかがう。
お父さんは遠い目をしている。私を見ているはずなのに、視線の先にいる人物は私ではないような気がした。きっとお母さんだ。
「一生忘れられないよ」
最後の一個を網に移し終えて口元を緩める。
「製菓専門学校を志望する動機になった焼き菓子だからね」
私は高校を卒業した。来月からは第一志望にしていた製菓専門学校に通う。私はお母さんを追い抜きたい。母の味を超えて、趣味ではなく仕事にしたいと夢見ている。
「お母さんが聞いたら泣いて喜ぶだろうな」
「それはお父さんじゃないの。今も目がうるんでいるでしょう」
「なっ……こ、これは……目にゴミが入っただけだ」
苦しい言い訳である。でも、目をこするお父さんの様子を見ていると、少しは親孝行できているのかなと思う。
父子家庭の胡桃沢家は裕福とは言いがたい。進学に際して、さまざまな面で負担をかけていることはわかっていた。それでもお父さんは私の夢を応援してくれている。ならば迷わず突き進むべきだ。
「『さあ、魔法の呪文を唱えましょう』」
お母さんから言われたことを復唱しつつ、ほんのりと温かい生地を手に取った。お父さんの分は十個だ。それらに粉砂糖をまぶし、お父さんがよく使う小皿に盛りつける。
小皿を手渡すと「いただきます」と白い歯を見せてくれた。
太い指が雪の玉を一個だけつまむ。感慨深そうにしていたわりに、口に含んだ後は慌ただしかった。
「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」
スペイン語だ。「ポルボ」が「粉」で「ロン」が「崩れる」という意味を持つらしい。ブール・ド・ネージュの元になった焼き菓子である。
その名の通りに軽い食感で、材料もほとんど変わらない。決定的な違いがあるとすれば薄力粉だ。ブール・ド・ネージュは薄力粉をふるうだけに留まる。対するポルボロンは色づく程度に焼いてから使用するのだ。
口の中でほろほろと崩れる前に「ポルボロン」と三度唱えることができたら願い事がかなうと言われていた。
「今回はドライピーチだな。ありがとう、風花。残りは部屋で食べるよ」
満足げに笑うお父さんに手を振って別れた。
「――胡桃沢家のポルボロン、か」
うっかり呟いた言葉は誰にも聞かれていないはずだ。
残った十個を、格子状の網から粉砂糖の入った袋へ移す。軽く振れば、こんがりと焼けた玉はじきに白く染まった。
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