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5節 夢を追う
お母さんが生きていた頃、私は五文字の呪文を唱えることに興奮を覚えた。肝心の願い事はなにひとつ覚えていない。当時はささやかなことを願うばかりだった気がする。ただし、呪文を唱えようとするあまり、雪の玉に隠された食材の問題をおろそかにする自分の姿は脳裏に焼き付いている。
お母さんが遺したレシピは間違いなくブール・ド・ネージュだ。
お母さんは素人だった。遊びの要素を加えて娘を喜ばせるために、あえて元となった名称を伝えたのか。それとも単純にブール・ド・ネージュをポルボロンだと勘違いしていたのか。
本人がいない以上、真相はわからない。そのうえでどうしても伝えたいことがあった。
「ありがとう、お母さん。魔法の呪文は幼い胡桃沢風花に夢を見せてくれた」
小皿の上に完成品を盛りつけていく。小皿は青色の下地に雪の結晶が描かれている。私のお気に入りだ。
冬限定のおやつはいつもこの青い小皿で出されていた。自分の名前の由来を知るまでは、季節に合わせているのだろうと深くは考えなかった。
風花は風花とも読む。風花とは、晴天の日に、風で運ばれてきた雪がまばらに降ることを指す。私は冬生まれだ。その日は青く澄み渡る空に雪がちらちらと舞っていたらしい。小学生の頃にそういう宿題を出されて初めて知ったことだった。
小皿に限定しても、使いやすかったり見た目が良かったりするものは他にもある。だが、十数年間、欠けることも、割れることもなく使い続けている冬専用の小皿は、これだけかもしれない。
「いただきます」
スペイン語の代わりに日本語の呪文を唱えた。
合わせた両手を下ろした後、小皿を持ち上げてキッチンの白い天板の淵に背を預ける。立ち食いだ。お母さんが生きていたら行儀が悪いと叱られるだろうか。カレンダーを見据えながら想像して苦笑する。
口に運んだ雪の玉がサクサクと崩れ去る。
三人家族で過ごした時間は私の人生の一部だ。だから一個たりとも無意味に消費しない。雪にまつわる思い出を少しずつ噛みしめる。
雪合戦ではしゃいだ気持ちも、お母さんへの憧れも、自分の名前に対する誇りも、すべて胃の中に収めて生きていく。
「ごちそうさまでした」
少量の粉砂糖が残った小皿を置き、もたれかかっていた姿勢から背筋を伸ばす。これ以上の言葉はいらない。私は顎を引いて三月のカレンダーを眺めた。
今年の雪はもう解けた。
少女にかけられた魔法も解けた。
白く彩られた指先でカレンダーをめくる。
四月。桜は咲いた。夢見る少女だった私は、夢追う女性になるための一歩を踏み出す。
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