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拝啓、前世。
僕を守ってくれてありがとう。あなたが自尊心を守ってくれたおかげで、僕はもう一度、天才ピアニストとして返り咲けました。
舞台袖は夜の光に包まれていた。大きな月が光の雨を降らせ、世界を薄檸檬色に染めている。僕は草原のなかにいて、風が吹くたびに叢が足首を擽る。森宮月桔の弾く『月の光』は絶品だった。
僕は『月の光』に浸りながら、空でピアノを弾いていた。
クレッシェンドする拍手で幻想から覚める。僕も遅れて拍手を送った。
太陽よりも眩しいスポットライトの下で喝采を浴びる天才は今日も輝いている。俺の神様は僕を一瞥した。
輝け。
「23番。蜷川蒼波さん」
拍手を浴びながらスポットライトの光に飲まれる。緊張も不安もない。僕の才能は鍵盤のように、いつもはっきりとしている。会場が静寂に包まれる。止まっていた時間を、あの素晴らしい愛しき前奏曲の続きから始めよう。
ピアニッシモの序奏は遠くまで響くよう繊細に奏でる。それをフォルテまで跳ねあげる。水が湧いた。
音が爆ぜ波となり、会場中に広がる。それはたちまち、み空色を映した湖となり、会場に枯葉が降り注ぐ。僕を中心にまた波がたち、広がる。跳ねる。飛び散る。枯葉の感触も水の温もりもない。僕の演奏では情景を表すまでが精一杯だ。彼女の足元にすら及ばない。それでも、彼女が愛した才能を僕が一番に愛してあげよう。
上手から顔を覗かせる森宮月桔と目が合った。月の演奏をする彼女がみ空色のなかにいるのはなんだか不思議だった。誰よりも光が似合う女の子なのに。
冬の匂いを拵えて、『木枯らし』が吹いている。僕の才能は湖の真ん中で輝いている。そして、これからも輝き続ける。
一番になれなくても、僕は僕の才能を選び続ける。
それが、才能を愛するということにならないだろうか。
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