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ナハトリンデン夫妻 Ⅰ
穏やかな波間に漂うような心地の中、キルシェは目覚めた。
しかしながら、密着して寝ていたはずのリュディガーはすでにないことに気づいて、キルシェは一気に頭が冴えた。
倦怠感のある体を両手で支えて起こし、三方を囲う天蓋の幕のうち足元側は開けられていて、そこから周囲を探るものの、まるで気配がなかった。彼の寝間着もないから、どうやら自分だけのようで、彼はすでに身支度を済ましているのだろうことは察せられた。
さすがに起きないと、と寝台の誘惑を振り切るために首をふる__と、ノックがされた。誰何すればそれはリリー。
キルシェは羽織物を咄嗟に探し__それは、寝台の足元に置かれていたから、おそらくはリュディガーが置いておいてくれたのだろう。
それに手を伸ばして羽織りながら、入室を促した。
「おはようございます」
「おはよう。ごめんなさい、かなりの寝坊ですよね……」
「旦那様が、ゆっくり休ませてほしい、と」
着替えを手にしたリリーは、穏やかに上品に笑む。
リュディガーのそれは気遣いなのはわかるが、それはそれでキルシェにはこそばゆいものだ。
言外の含みなどないいはずだが、キルシェは色々と想起してしまうし、リリーをはじめ、使用人等にはなんと思われているか、そこまで考えてしまう。
「あ、の……えぇっと……リュディガーは?」
「旦那様はご朝食も済まされて、下の書斎におられます」
「書斎……」
「ホルトハウスさんもおられますので、おそらく、所領のことや屋敷のことをご相談されているのだと」
「そう、ですか……」
所領、屋敷のこととなれば、自分も任せきり、というわけには行くまい。ゆっくり休ませて、という言葉があるが、その相談に立ち入らせたくないからということではないだろう。
「よろしければ、ご朝食は、こちらにお運びしてしまってよろしいでしょうか?」
「……はい」
「では、まずは身支度をいたしましょうか」
手にしていた着替えを示しながら穏やかに言われ、キルシェは寝台から出る__が、布団をどかしたところで、いくらか息を飲んで、動きを止めてしまった。
「奥様……?」
持っていた着替えを衝立に引っ掛けていたリリーは、キルシェの行動を怪訝に思って声をかける。
まだまだ馴染みのない呼び名だが、その声にはっ、として、振り返るとすでにリリーがすぐ傍にいて、自分がなんで固まってしまったのか、その原因を見られることになってしまった。
「ぁぁ……よろしいんですよ。大丈夫です」
よろしい、と言われてもキルシェには恥ずかしいことこの上ない。
血の跡が驚くほどではないものの、いくらかあったのだ。拭ったようになっているのは、これを見つけて昨夜リュディガーが拭き清めたからだろう。
なぜこの血の跡があるのか、それがいつなのか__心当たりがないような、あるような。
__何も、言われてない……けれど……。
閨の最後に清めてもらったとき、何にも言われていない。
それは気遣われてのことに違いない。
あの拭った布はどうしたのだろう__とか、色々と疑問が浮かんで、それはどんどんキルシェの羞恥心を駆り立てる。リリーに見られてしまった、といういたたまれない気持ちもまた膨らんでいく。
こんなことはもう起こらないのだが、生々しい現実に、ぎゅっ、と奥歯を噛み締めて叫びたくなる衝動を抑えるキルシェ。
「伺おうか、どうしようか、と思っていたのですが……その……お体、お辛くはないですか?」
こくり、と頷くことしかできない。
「と、とりあえず……お召し替えをいたしましょう。部屋着をご用意いたしましたので」
さぁ、と促されて衝立の向こうへと導かれるキルシェ。
部屋着に着替える__今は全裸に羽織りだけだから、手を貸してもらう部分はないので、彼女には食事を運んでもらう。
冷めても困らないものを一緒に運んでいた彼女は、廊下と部屋とを幾度か行き来して、窓際のテーブルを整えて行く。
その音を聞きながら、部屋着に袖を通し、ところどころ__とりわけ首や胸元に赤い、親指の頭ほどの大きさの痣があることに気づかされた。なんだろう、と疑問に思いつつ、身支度を終えて羽織物を羽織って、テーブルへ向かう。
そう経たずして、手際のいいリリーのお陰で、あっという間に食卓が整った。
「あの、リリー。ひとつ変なお願いをしてもいい?」
「何でしょうか?」
お茶を注ぐいれ終わるのを待ってから、キルシェは口を開いた。
「その……寝台を整えるの……今日だけは、私がしてもいいですか……?」
一瞬、きょとん、とするリリー。彼女の様子にキルシェは視線を泳がせて言葉を探す。
「ほ、ほら……大きさが違うから手間取るかもしれないですけれど、寄宿学校で私やってきていますし……汚れだって、あります、から……」
最後の方へ向かって、どんどん歯切れ悪くなっていく。うまい言い訳ができない。それもまた羞恥心を煽る。彼女の目を見ることができない。
「……差し出がましいとは思いましたが、こちらへ来る前、寝具は必要があれば処分してしまってよいか、旦那様には内密にお伺いを」
「ぇ……」
弾かれるようにリリーを見れば、彼女は苦笑のような、それでいて穏やかな笑みである。
「無論、善いように、と。__旦那様も、どうするのがいいのか、気がかりでいたそうです」
キルシェは目を見開いた。
「奥様が目覚めてから、自分でこっそり処分してしまうおつもりだったそうですよ」
血の汚れは落ちにくい__それは、職業柄、彼はよく知っているのだろう。
たとえ、綺麗にしてしまえるとしても、当主自ら寝具を洗う場面も見せるわけにもいかない。そんなことをすればこっそりなどしていられないから、ああそういうことか、と使用人らには悟られる。ならばもはや捨てるしかない。
きっと色々思案しただろう。キルシェが目覚めて、主寝室から去ってから、使用人が掃除にとりかかる前に、回収と処分をしてしまわなければならない。その流れを。
小さな所帯__庶民の生活で、自分と彼だけの生活であれば、なんら気にする__いくらか恥ずかしさはあるだろうが__こともなく、完全に落とせずともしばらくは使っていただろう。
生まれながらに使用人に囲まれた生活であるキルシェでさえ、後朝のこうしたことは、ただただ恥ずかしいのだ。
__変わり者……なのかもしれない……。
他の家では__良家の娘と呼ばれる子女はどうしているのだろう。
たとえ交友関係が今、あったとして、そこまで立ち入ったことを話題にすることはキルシェにはできないが__。
「__お気になさいませんよう。お恥ずかしくてあらっしゃるのも、承知しておりますので。私が責任をもっていたしますから、ご安心を」
「……ありがとう、リリー」
彼女は本当によく気がついてくれる。
彼女が、侍女としていてくれることが、どれほど心強いことか__。
朝食というには遅すぎる食事にキルシェは促されて手を伸ばす。
まずは、彼女が入れてくれた温かいお茶。とても良い香りがして、頭がよりはっきりしてくる。
「……その昔、このシーツを露台に晒していたのよね……」
「もうそんなものがない時代でよかったです」
「ええ、本当に」
いつの頃からか、廃れた伝統だ。
それも人間族の貴族での。
馬鹿馬鹿しい、と現龍帝が寝具を自らの手を傷つけて血染めにして、それを晒したのがきっかけで減っていったという逸話がある。
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