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ナハトリンデン夫妻 Ⅱ【結】
なんとなく既視感がある__キルシェは散策をしながら思った。
日が昇り、それなりに時間は経っているのだが、山間部ということ、そして湖があるということで、霧がまだ薄っすら屋敷のある地方を覆っている。
いくらか低く感じる雲間から差し込む陽光は、霧に阻まれる__否、霧の中に抱かれ、霧そのものが明るく見えた。
その中に佇んで、キルシェは屋敷からそう離れていないところの湖を眺めていた。
やや風が出てきて、それはまだ冷たい風で、キルシェは身震いして、襟元を握りしめるようにして、冷気をやり過ごす。
「キルシェ」
背後から呼ぶのはリュディガーだった。
背後を振り返ると、彼は黒い大きな愛馬の手綱を引いてまっすぐ歩み寄ってきていた。
「お話は終わったのですか?」
部屋で身支度を整えたあと、リュディガーに会いに行ったのだが、彼は主要な使用人等と新しく雇い入れた領地管理人や庭師と話し合いをしている最中だった。
彼にすべて丸投げするつもりではないが、彼が当主である。助言や意見を求められればするが、今の段階で下手に口を今だして引っ掻き回さないほうがよいだろう、というのがキルシェの判断で、顔出し程度に同席した後、退出したのだ。
__結局、所領のことは見学もそれほどできていないのだし。
挙式し、今日に至るまで予想以上に動ける時間もなく、居候先の屋敷と龍騎士見習いの官舎、後見人の職場である帝都の大学の3つを巡るだけの生活だった。所領の視察はままならないままなのだ。
「終わるかと思ったんだが、一時休戦だ」
「休戦?」
苦笑を浮かべるリュディガーは、黒い愛馬サリックスの手綱を手放して、前足近くの首を叩く。すると、待ってました、と言わんばかりの勢いで馬は駆け出していった。
大きい部類に入る馬は、真っ先に向かったのは湖。それはどこか、湖を目的に走ったというよりも、思い切り走ることが目的だったようにも見えた。
サリックスは、賢い。
満足すれば呼ばずとも屋敷に戻るので、リュディガーはよくこうして解き放っているのだ。
彼には龍がいるが、それもまた目覚めた彼が専用の厩から放っている。特に用事がなければそうして、気の向くままにさせている。主に山々を巡っているらしい。
馬にも可能な限りそうしているリュディガーは、馬その様子を見守りながら、キルシェに並んで腕を組んだ。
「家のことは、キルシェもいないと。私だけじゃ、本当に適当にしてしまいそうでな。なにせ広すぎる」
「家の……それは……領地運営のお話でなく?」
「ああ。家の中のことだな。領地運営でも、君の知恵は後でほしいが、それ以上に私にとって難題はあの屋敷のことだ」
「そう……ですか」
「権威がどうの、と言われても、はて……、と眉を寄せてしまうから、ホルトハウスに休憩にいたしましょうと言われたんだ」
権威、とキルシェは反芻すると、リュディガーは肩をすくめて屋敷を振り返る。
「どうしても、合理性やら機能性やらを重視しがちで、優美さとかは取り入れることを忘れがちなんだ。無論、そうした雰囲気はわからないではないんだが……ホルトハウスにとってみれば屋敷の権威というか、そういう風格が未だ足りないんだと。よく言えば、清貧ではあるが、と」
「清貧……」
ビルネンベルク家の屋敷に比べれば、劣ることは言うまでもない。なにせ駆け出し貴族だ。リュディガーなど叩き上げも叩き上げで、彼なりにそうした生活に馴染もうとしているのはキルシェのよく知るところ。
__ホルトハウスも、ビルネンベルクのようにしろと言ってはいないでしょうけれど……。
「蓬莱式だと捉えてくれ、と言ったら処置なし、と言う顔をされて、休憩にいたしましょう、と」
キルシェは、そのときのホルトハウスの顔が浮かんで、小さく笑ってしまった。
「蓬莱式だとしても、ここよりも厳かさも華やかさはありますね……」
「そうか」
「貴方の職場、そちら寄りなのに、自覚はないのね」
実際目にした訳では無いが、宮中での神事にありがたいことに参加できたことがあり、そこで見た景色は帝国の貴族の屋敷にはない洗練された美があった。質素であるところもあれば、鮮やかな華やかさも添えられていて、それがとても静謐さを備えている不思議な空間。
キルシェも、指導員として短期間であるがそうした官舎に出入りしたからこそ、よく分かる。官舎でさえも、そうした様式にしていることに驚かされた。
「……まあ、歴史がある、というのもわかる。__そうか、職場か……確かにどこかしら誇張しない装飾があって、華やかさも威厳もあるな……」
「ビルネンベルクの大屋敷も、蓬莱寄りだと聞いています。帝都のお屋敷も比較的」
「そういえば、いつだったか、先生がおっしゃっていたな。こういう作りのほうが、こだわりが詰まっていて高く付く。分かる人にはわかるもので、来訪者はすでにそこで篩にかけられているのだ、と__あ……」
「?」
リュディガーが突然思い出したような声を上げるので、キルシェは小首をかしげる。
「いや……ホルトハウスさんが呆れた理由が、なんとなくわかった気がして……」
「理由……?」
「__蓬莱様式にすると、質素な見た目の割に、費用がかかるからだ。帝都でビルネンベルクの屋敷に泊まらせてもらったことが何度かあるが、客室は蓬莱式の装飾が多かった。だから、分不相応だと思って、部屋を変えてほしいといったら、さっきのことを言われたんだ……__君は、そうした審美眼もあるのだね、と褒めていただいた。だが、部屋をついに変えてはもらえなかったな……。慣れだよ、と」
慣れ、とキルシェは繰り返し、いかにも恩師らしい言葉と対応だ、と笑ってしまった。それをリュディガーが睨めつける視線をくれるが、申し訳ないとおもいつつも、どうしても抑えることができない。
リュディガーはひとつ咳払いをして、屋敷を振り返る。
高い木々の向こうに見える、霧に微睡む屋敷の屋根に、キルシェは目を細めた。
家の中は、以前空だったことが嘘のように、もうすっかり整っている。生活感というものがあって、息吹を吹返したよう、と執事のホルトハウスは言っている。
庭木も春前には手入れがなされ、周囲の景色に溶け込むような庭へと変わりつつある。
まだここでの生活が本格的に始まったばかりのキルシェには、実感があまりないことであるが、数年変わらずそうであったような屋敷に見て取れる。自分自身も違和感なく、自身の住処としていられるだろうことは疑いようもなかった。
「私は、今は休みをもらえているが、主に帝都が任地だ。ここにずっと留まるのが日常ではない」
「ええ、そうですね」
あまりにも長期になりそうであれば、キルシェも帝都のビルネンベルクの邸宅へ厄介になることになっている。
「生活拠点はどうやってもここで、君がしたいようにするのが一番だと思う。ホルトハウスと組んで、うまくやってくれ。ビルネンベルク侯も滞在した屋敷っていうには、まだまだなんだそうだ」
「わかりました。リュディガーの私室とか、いくつかは貴方が在宅中に相談させてください」
「ああ、無論。私室はまぁ……あのままでいいと思っているが……主寝室とかもか?」
主寝室、と聞いて、キルシェは頷く__が、直後に昨夜と今朝のことを思い出して、顔が強張ってしまった。
「そ、う……ですね……」
なるべく触れることの無いよう、平静を装うキルシェ。視線は再び湖へと移す。湖畔を散策しながら、草を喰む馬の姿を見つめて意識を逸らそうと努める。
「寝心地は、大事だと思うな。いくら吊床でも大丈夫だと君が言っても、流石に連日吊床じゃ疲れはとれないし__」
そこまで言ったリュディガーは、並ぶキルシェに身を寄せると、腰へ腕を回して引き寄せる。
途端に、どきり、と体が弾んで、心臓が早鐘を打ち始める。
「__大きな吊床なら、寄り添って眠ることはできるだろうが……なぁ?」
最後、強調する言い方は、あまりにも含みがある。その含ませる言い方は、しかもいくらか吐息混じりに耳元に寄せてのことで、これはもう質の悪さしかなかった。
腰に添えられたてが、輪郭をなぞるように優しく撫でる。服越しでもわかる優しい動きは、愛撫と言っても良かった。
顔が火照って、耳までも熱い。
反応してしまっている自分が恥ずかしくて、彼にせめて顔だけは見られまい、と顔を背けるのだが、直後にもう一方の手が動いて彼へ体を向けられ、口付けられた。
ずくり、と体の芯で疼きを覚える。それは寝起きに焚きつけられた劣情がもう一度、熾されたといってもよい。
深くなる口付けに抵抗できないのは、キルシェも求めてしまっているからで、不意に彼が口付けをやめたとき、どこか物悲しさを覚えるほど。
「さて、戻るか」
「……はい」
腰に手を回されたまま、リュディガーに身を寄せて屋敷へと向かう。
ちらり、と振り返るとサリックスは、こちらが動いたのを見ただろうが、まだ外に留まるようで追おうとする様子がなかった。
「__一服に付き合ってくれ。そしたら、助太刀を」
助太刀、という言葉にキルシェは思わず笑った。
「笑い事じゃない。こっちは大真面目なんだ」
湖を渡ってくる風は相変わらず冷たいが、リュディガーと寄り添うとさほど気にもならない。
__これから……こうして歩み続けて行くのね。
きっとおそらくそうだろう。
まだ何かあるかもしれないが、彼とであれば__
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