海の精霊の業

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海の精霊の業

砂に絵を描いて、暑くなったら海に飛び込んでクールダウンする日々が続いた。 ある日トバァク酋長が絵を見に来て、真剣な顔で眺めたあと、ニカニカ笑ってトオルに聞いた。 「お前の心配事は減ったか?」 「少し減った気がします」 トオルはうなづいた。 「そのようだな。その調子で海で身を清め続けろ。精霊が憂いを洗い流してくれるさ」 トバァク酋長はトオルの頭に手を置いてそのまま自分の家に帰って行った。 今では、トオルも、チビたちについて行って、沖のチビたちの漁場まで泳げるようになった。 沖には岩場があり、遠浅で、そこには豊かな海の恵があった。 貝や魚介類を採りながら少しずつチビたちが案内してくれる。 チビたちは驚くほど深くまで魚のように潜って行く。 たまにイルカが遊びに来た。 トオルはこんなにすぐそばでイルカを見たのは初めてだった。 野生のイルカがとても人懐こいことにも驚いたが、チビたちが慣れたようにイルカと遊んでいるのも感動的だった。 身体を海の中に漬けていると、本当にトオルが今まで抱えていた鬱屈が薄らいだ。 日に日に、ただ淡々と、ああそうだったな、と思い出せるようになった。 チビたちやイルカと遊びながら、トオルはまだ気楽なストリートアーティストだった頃の目が覚めると今日は何をしようか?とワクワクする気持ちをとりもどしつつあるのに自分で気がついた。 透き通った海水に、息を止めて頭から潜り込む。 あまり深くまでは潜れないから、適当なところで、上を向く。 すると、水天井は太陽の光でキラキラと不思議に輝き、ゆら、ゆら、と揺れる。 それを眺めているだけでも、心が踊るような何かを感じる。 そうすると、笑い出したくなる。 トオルの笑いは泡になって上へ昇っていく。 ますます笑いたくなる。 声に出してこの気持ちを表現したくて、水面に飛び出す。 雄叫びを上げると、チビたちがニカニカ笑って真似をする。 皆で雄叫びを上げあっていると物凄く楽しかった。 遊び疲れると、ヤシやバナナの木陰の乾いた砂の上に転がって昼寝をした。 ここでは、いつも、どこに居ても波の音が聞こえる。 ウトウトしながら、トオルは、ああ、海に寝かしつけられている、と思った。 それは、心地よい気分だ。 途絶えることのない波の音。 それを聞きながら眠りに落ちていくのは気持ちよかった。 たまにいつまでも寝ていると、チビたちにいたずらされて砂に埋められたりするが。 ある日、鏡を見て、トオルは自分に笑い出した。 日に焼けて、髪の毛はモジャモジャ、実に見事に、現地人化していたから。 そして、ニカニカ笑いをしていたから。 海は晴れの日ばかりではない。 大荒れに荒れるときもあった。 嵐が来たら、皆小屋にこもる。 普段は風通しの良い小屋の造りも、この時ばかりは、横殴りの激しい雨に振り込められて家の中までびしょ濡れだ。 一応、ヤシの葉で編んだ雨よけの扉があるが、風に煽られてあまり役に立たなかった。 海は大きく激しくうねり、打ち寄せる波の音も恐ろしげにザア!ザア!と音を立てる。 風がびょうびょうと辺りの木を揺らし、葉鳴りの音がやかましく不安を煽った。 人間は為すすべもなく、ただ嵐が通り過ぎるのを待つしかない。 ジョンと二人、小屋に閉じこもって嵐が過ぎるのをじっと待ちながら、トオルは、自分はなんて自然の前ではちっぽけなんだと思った。 嵐の後の海はまだ名残が残っていて、浜辺にはもみくちゃにされて打ち上げられた漂流物が散乱している。 村の皆と無事を確認し合ってから、そうした漂流物を眺めて歩いて、気に入ったものを拾って歩く。 きれいな貝殻や、シーグラス、ビーチサンダル、ペットボトル、半分に割れた大きな浮き、他にも色々。 まだ海に入れないから、トオルはチビたちと一緒にそういった物を拾って歩いた。 トオルからすればゴミにしか見えない物も、役に立つ道具になることがある。 島には海が荒れていなければ数週間おきに船上売店が来るが、大抵は拾った物で用を足す。 どこからかサッカーボールか流れ着いたことがあった。 チビたちは遊び方もルールも知らず、サッカーをする程開けた場所も無く、サッカーボールはビーチボールと同じ扱いになったあと、飽きられて浜辺の片隅に転がったままだった。 海の中に行けばもっと面白いことが沢山あるのだ。 仕方ない。 島の村人は、良く「海の精霊」について話す。 今日は海の精霊がついていたから、漁に恵まれた、良いことがあった、と。 でも、トオルには海の精霊は見えなかったので、居る、と確信を得られなかった。 ただ、毎日海で泳いでいる間に、鬱屈した気分が晴れていくのは感じた。 太陽と塩水が浄化してくれるのだろうと、考えていた。 正直精霊を信じていない自分が申し訳無かったが… トバァク酋長は、良く「マウマウ島は海の精霊に愛された島だ」と力説していた。
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