満月の海の底

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満月の海の底

嵐が落ち着いた満月の日だった。 トバァク酋長が、おりいってトオルに頼みたいことが在るから、と、夕食に呼んでくれた。 トオルはジョンと酋長の家へ夕食に呼ばれて行った。 酋長の奥さんの手料理を食べながら、トバァク酋長は、祭壇に飾られたタペストリを指さして、トオルに新しいものを描いてほしいのだと言った。 トオルが砂の上に描いた絵を見て、そうしようと思ったという。 トオルは躊躇した。 絵筆を手にしなくなってから長い事間が空いた。俺、描けるだろうか…こんな素朴でいきいきした、神聖な物を。 「必要なものもは、俺が持ってる、トオル、描けよ」 ニカニカ笑いをしながらジョンがのんびり言った。 でもまだ躊躇った。 怖かった。 トオルは、ジョンに手伝ってもらいながら、トバァク酋長に、自分が描かなくなるまで辿ってきた経験を全部話した。 それでも、祈りの対象になる絵を描かせたいか、酋長に聞いた。 酋長は、そぼそぼと、気負いのないのんびりした暖かい笑顔を浮かべて、すぐうなづいた。 「お前は海の精霊に清められたさ。だからお前のしたいことをしろ」 また、絵筆を取るのが怖かった。描けるだろうか?それも怖かった。トオルはトバァク酋長に一晩考えさせてほしいとこたえて、酋長の家を出た。 戻り道、カナの家の前を通った時、カナが突き出たお腹を手で擦りながらよろよろした足取りで出てきた。 そのまま、海の方へ歩いていく。 驚いてトオルはカナのそばに駆け寄った。 「具合悪いのか?」 「違う。放っといて。」 「無理だ、その体でどこ行くんだよ?!誰か呼んでこようか?」 「私は平気。海に行くわ。放っといて。んん~」 陣痛が来たのか、カナがしゃがみ込んだ。トオルは慌ててカナを覗き込んだ。 薄情な事にジョンは慌てるトオルをぼんやり眺めているだけで手をかそうとしない。 カナはゆっくり立ち上がると、浜辺に乗り上げている船の一つを押し出して乗り込んだ。 「何してんだよ?!どこに行くつもりだよ?!」 驚いてトオルが止めると、めんどくさそうにカナはトオルに目をやってから、船を漕ぎだした。 なんだか変だった。 トオル以外、カナが海に漕ぎ出したのを誰も見咎めない。 驚いて慌てているのはよそ者のトオルだけのようだ。 時々、辛そうに動きを止める他は、まるでどこか当てがあるかのように頑としてカナは沖を目指す。 もう、陣痛が辛いのか、トオルに付いてくるなという元気もないのだろうに。 トオルは放っておけなくてカナについて行った。 正直妊婦に付き添うのは恐ろしくて初めてだ。 いっぺんに2つの命を扱うのはドキドキした。 島からしばらく離れた海の上で、カナが船を止めた。 そのまま、頭からドブンと海に沈んでいく。トオルは慌ててカナの後を追った。 海の中は岩礁が丸く砂地を取り巻いている。 カナはゆっくりその砂地を目指して沈んでいった。 息が続かなくてトオルは途中で一度水面に出た。それから慌ててカナに空気を届けようと息を大きく吸った。 潜る。 カナは砂地の丸く盛り上がった砂溜の上で体を丸くしてうずくまっていた。 その時トオルには耳をビリビリ震わせる音をカナが発しているのが感じられた。 カナのそばに行くと、カナはトオルに首を振って、体を丸めながら益々「音」をあたりに響かせた。 まるで誰かを呼んでいるように。 カナは息は続くのか?このまま放っておいて大丈夫なのか?トオルは海の底でパニックになった。 だが、もうかなり経っているのにカナは海中で息継ぎもせずに何度も身体をよじって両足を踏ん張る。 少しして、岩礁の向こうから、ものすごい速さで泳いでくる男の姿が見えた。 それに、ファナおばさんの姿も。 2人共サメか何かのようにスルスルと海水の中をカナに近付いてくる。 そして、男はカナの手を取って労わるように背中を擦った。 ファナ叔母さんは落ち着いた様子でカナの足元に待機する。 トオルは何が起こるのだろう?と何度も水面に浮き上がって息継ぎをしながら固唾を飲んだ。 なにかとんでもない物事を目の当たりにしているのだけわかった。 仄暗い月明かりだけの海の底、今見ているものが何なのか、トオルの心臓はバクバクと激しく動いた。
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