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トバァク酋長
トオルが大分起き上がって居られるようになると、ジョンが風呂に入れと言った。
風呂、と言っても、村の何軒かが共同で使っている浴場と言うには簡単な造りの掘っ立て小屋で、手作りの素朴なシャワーしかなく、水しか出ない。
ファナおばちゃんが、石鹸とスポンジをくれて、トオルが倒れるかなにかするのを心配して何も見逃さないように体を洗っている間何度も覗きに来た。
お、落ち着かない…
トオルがサッパリしてヒゲも剃り、髪を整えると、ジョンがぶらぶらやってきて、ニカニカ笑いながら言った。
「出かけるぞ。すくそこだ。トバァク酋長のところへ行く」
「酋長?」
トオルはワクワクして聞き返した。
トオルはアメリカにも行くところに行けば原住民の「酋長」と呼ばれる立場の人間が居ることは知っていた。だが、トオルが子供の頃夢中になってみた本の挿絵のような厳しい戦闘酋長(ウォーチーフ)は、もう居ない。居るのは怒れる「居留地に押し込まれた人」だ。
この南の島々の集まりの国では、エリアごとに酋長がいて、時に行政の長より発言権が強いそうだ。
期待が高まる。
果たして。
ジョンが連れてきたのは、トオルが寝起きしていた小屋より幾分広い簡素な小屋だった。
庭には、カラフルな派手な色の洗濯物が干してあり、日常臭たっぷりの家だった。
ジョンが島の言葉で何か声を掛けると、海で百年位煮しめたような爺さんが、派手な黄色いTシャツに椰子の腰みの、という出で立ちで、小屋の中から、そぼ、そぼ、と出てきた。
人の良さそうなニカニカ笑いを浮かべている。
大きな羽飾りや、怖い戦闘斧もない。
トオルは黙り込んで爺さんをジロジロ眺めた。
「トバァク酋長だよ」
ジョンが紹介した。
トオルは、がっかりしたことを丸出しで、手を出した。握手しようと思ったのだ。だがトバァク酋長はトオルの手を無視して、何かブツブツいいながらトオルの頭に手を置いた。
そして、自分の家へジョンとトオルを誘った。
トバァク酋長の家の中には、祭壇があって、そこには木彫りのニ対のトーテムと、壁に海の中をシンボリックに描いたタペストリーが飾ってあった。
酋長はそぼ、そぼ、そぼとその前にあぐら座で座ると、そぼ、そぼした声で頭を下げながらなにか言った。
ジョンがその側に座って、トオルにも座るように促してきた。
トオルはタペストリーを眺めながら、生き生きと人と大きな魚と花園のように描かれた海底の様子に少し胸が痛んだ。
もう、こんな素朴で心躍る絵をかけない自分に。
トバァク酋長は、座ったまま機敏にトオルに向き直ると、トオルの目を見た。
トオルも見返した。
見た目は海で百年位煮しめたような爺さんだったが、トバァク酋長の眼差しは深く強く、トオルを射すくめた。
トバァク酋長がトオルになにか話しかけてきた。言葉が解らないのでジョンを見ると、通訳してくれた。
「マウマウ島へようこそ。お前は邪な心根でここへ来たのではないと解る。だが何をしに来た?」
トオルは、正直に答えた。
「今日食う魚の事しか心配事がない世界を見に来ました」
今度はトバァク酋長がジョンをみた。
ジョンが真面目に通訳する。
酋長は、目を閉じてそれを静かに聞きながら頷いた。
そしてまたトオルの目を見て、何か言った。
「どうして見たいのか?って聞いてるぞ」
トオルも酋長の目を見て、答えた。
「俺は心配事がたくさんあるので、見ているうちに心配事が減るかもしれないと思いました」
酋長はうなづくと、真面目な顔を和らげてなにか言った。
「毎日海で泳げ。海の精霊が、お前の心から憂いを清めてくれる。心を清めるか?それならマウマウ島に居てもいい」
ジョンが通訳する。
トオルは、ありがとうと言った。
酋長は、もう一度祭壇に頭を下げると、またトオルに向き合った。
「見様見真似でいいから、トバァク酋長の言ったことを繰り返せ」
ジョンが真面目に囁いた。
「OK」
トオルはうなづいた。
トバァク酋長は、突然雰囲気が変わって、真面目ないかめしい顔になり、腹の底から出るような声でトオルになにか言った。
トオルはそれを繰り返した。
そのやり取りが何度か。
また、酋長はニカニカ笑いを浮かべると、打ち解けた風にトオルの腕をポンポンと叩いた。
「終わりか?」
ジョンに聞くとジョンはニカニカ笑って首を振った。
「これから、皆でお前の歓迎式をするんだ」
「ええ〜?」
「そんな顔するな。島のしきたりだ」
そぼ、そぼと手招きする酋長のあとについていくと、広場に出た。
そこには中央に椰子の葉を束ねて作った小屋ができかけ、村の男たちが何人か、小屋の前でああでもないこうでもないと談合していた。
酋長がやってきたことに気がつくと、皆でこっちに来て欲しいと言っているようだった。
トバァク酋長は、照れたような顔になって、でも嬉しそうに皆と合流した。
着々と小屋は出来上がっていく。
それを眺めていると、ジョンがおかしそうに言った。
「島に正式な客なんて数十年ぶりだから、もうもてなし方を忘れた連中が多いのさ。酋長は長老だから、まだ色々覚えているんだ」
「あの小屋何で作ってるんだ?」
「あの中で島のお歴々にお前のお披露目をするのさ」
「ウヘェ」
「付き合ってやれ。お前がこの島に来てから皆楽しみにしてたんだ」
「ジョン、あんた、俺をなんだって紹介したんだ?」
「ん?ただ、アメリカの街から来る友だちだって言った」
(俺が有名なアーティストだって言わなかったのか…)
トオルはてっきりそれでこんなに大仰に迎えられるのかと思っていた。
凄くホッとした。
ただ…多くの知らない人目に晒されるのは少しうんざりした。
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