トオル

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トオル

ついこの間まで、トオルはストリートアーティストだった。 ただ描きたいから、手持ちの画材でそこら辺のシャッターや壁に、描きたいものを描いていた。 そのうち、うちの店にも1枚描いてくれ、その代わりランチをご馳走するよ、といった依頼を受けたり、私のリビングに飾りたいから描いてくれとオレンジを一袋貰ったりするようになった。 そんなふうに描いた1枚が、無名のアーティストを発掘して大物にすると評判のアートディーラーの目に留まり、大きな立派な画廊に絵が並ぶやいなや、トオルの絵は値段がつり上がった。 いきなり有名アーティストになり、トオルが知らなかった世界から招かれるようになった。 おもちゃの箱にダイブするように無邪気に喜んて飛び込んだが、気がつくともう安くて美味いランチをご馳走してくれたダイナーのおじさんはいなかったし、オレンジ一袋をくれた奥さんは会えなくなったし、周りには名声に集まってくる温度のない人間ばかりで、トオルの絵を暖かく喜んでくれる類の人は誰もいなくなった。 ある日、誰かが用意してくれた高級なホテルの一室で、カンバスに筆を投げつけて「やめた!楽しくねえ!」と叫んだきり、トオルは絵筆をもつことをやめた。 絵筆を投げつけたカンバスは目ざとい他所のディーラーがさっさと大金に変えた。 ただ逃げたくて、トオルは古巣に戻った。 有名なアーティストの歓心を引きたくて金持ちの娘が送りつけてきたコカインを持って。 しばらくして、鼻の穴を粉まみれにして意識朦朧と自室で倒れているのを、トオルを発掘したアートディーラー、ジョン·ザッカが見つけて病院に担ぎ込んだ。 そのまま暫く薬を抜く為に病院に監禁されたあと、退院すると、トオルは、家に引きこもって、通信機器を窓から全て放りだした。 そして、部屋中がクソになるまでなるように放置した。 誰もがトオルは潰れたと思い、あれほどいた良くわからない取り巻きは居なくなり、絵の依頼をするものも居なくなったが、ジョン·ザッカは諦めなかった。 ある日、ポストに何かが落ちる音がして、何だろう?と取り出してみると、ジョン·ザッカからの手紙だった。 そこには、聞いたこともない国の片道の航空券と、道順が書かれたメモと短いメッセージが入っていた。 「いつまでそうして不貞腐れてる?いっそ本物の天国へ来ないか?今日食う魚のことしか心配事のない世界へ」 トオルは、その手紙を握りしめて首を傾げた。 「天国だって?今日食う魚のことしか心配事のない国だって?」 そして、荷造りを始めて、翌朝クソと化した部屋をあとにした。
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