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涼くんは私の世界に現れた神様だった。
何故そう思ったかというと、彼がそう歌っていたからだ。
「俺は神だ」「俺を信じろ」とかいう言葉を、マイクに乗せて、キラキラと輝くライブハウスのステージで。
涼くんはボーカルだった。ハスキーな歌声が魅力的だった。ファンの女の子もいっぱいいた。
魅せられた私は足繁く通い詰めた。ライブは勿論全通し、ファンレターを送り、出待ちをし、ようやく認知されて、やがてライブ後に一対一で話してもらえるようになった。
ステージを降りた涼くんはライブ中よりも随分と落ち着いた喋り方をしていて、それが余計にかっこよく見えた。バンドの方向性とかキャラとか言っていたけれど、私にはよく分からなかった。
「そっか。分からないんだ」
伏目がちに笑った涼くんの顔は、私を見下ろしているような気がして、そういうとこはやっぱりステージの上と変わらずにかっこいいと思った。
長い前髪の隙間から覗く目が合う度に、私は心臓が高鳴った。それが思い込みじゃなく間違いなく自分に向けられた視線であることにドギマギしていた。
その日は、二人で夜風に当たりながらお酒を飲んでいた。私の家のベランダの柵にもたれた涼くんは、ほろ酔いで上機嫌だった。会話はなかったけれど、満ち足りた空間だった。その空間の中に、涼くんは煙草を吸った息を吐きながら、ぽつりと「付き合う?」と言った。私は、「はい」と頷いた。
涼くんは私を、彼女にしてくれた。
涼くんの彼女でよかった、と思う。だって、今こうして、涼くんを生かすことができるのだから。
涼くんがこの世界から消えてしまうなんて絶対にありえない。涼くんが、涼くんの歌声が、永遠にこの世界から消えてしまう。それは世界の損失だ。
選択肢など、一つしかないのだ。
「愛美はさ、俺がいないと生きていけないでしょ?」
先に口を開いたのは涼くんだった。私は頷く。涼くんより先に口を利く気はなかった。決定権は、いつだって涼くんが握っている。
涼くんは中央の空間に歩み寄り、赤い風船の紐に手を伸ばした。私はそれを確認して、ほっとして目を閉じる。
よかった。私が死ねば、涼くんは助かる。私の一番は守られる。
でも。
ちょっとだけ、ほんの1パーセントくらいだけ、心の片隅で願ってた。
「愛美」
気のせいだろうか。涼くんが私を呼ぶ声がする。
「何で、勝手に目を閉じてるの?」
私は反射的に目を開けた。涼くんを見る。赤い紐に伸ばされたはずの手は、なぜか私の手に重なっていた。小空間を通して私の手を引く涼くんに、私は戸惑いを隠せない。
「俺は赤い風船の紐を引くよ。だから、愛美は青い風船の紐を引いて」
耳を疑った。何を言っているのか分からなかった。
分からない。私は馬鹿だから、涼くんがいないと何も決められない馬鹿だから、その言葉の意味が分からなかった。答えを求めるように、縋るように涼くんを見る。
涼くんは私を見ていた。何か大切なものでも見るように。そして、俯いて少し笑った。
「俺もね、たぶん、愛美がいないと生きるのしんどいと思うよ」
私は雷に撃たれたように動けなくなった。口も動かなかった。応えられなかった。
あの時、自分の死を確信して、目を閉じた。
その瞬間に、私が願ったこと。
本当は、一緒に死んでくれたらなぁって、1パーセントくらいだけ思ってた。
「返事は?」
涼くんの言葉で、私は一瞬にして麻痺から解放される。私は震える唇を動かす。
「は、い」
涼くんへの返事は、「はい」以外あり得なかった。
私はそこで初めて、自分から口を開いて、涼くんに問い掛ける。
「……涼くん、私のこと好きなの?」
「さあ」
いつもと変わらない、落ち着き払った声で涼くんは言った。
「愛着が、湧いたんだろうね」
そういえば、と私は思った。涼くんはステージの外では決して、愛の言葉を囁かなかった。ライブでは、「愛してる」とよく歌っていたのに。
歌詞ではない、涼くんにとっての「愛してる」は、どんな言葉をしているのだろう。
涼くんは赤い紐に手を伸ばす。私は青い紐に手を伸ばす。互いの命の手綱を握りながら、私達は小指を絡めた。
「同時に引こう。またあの世でね」
涼くんが笑う。私も笑う。
そして私は、青い紐を引っ張った。
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