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手を繋いで、冬の大三角形を一緒に見たい
これは由乃が小学校5年生のときだから、今から10年ほど前のことだ。
由乃は固定電話の受話器を片手に、窓から夜空を見上げていた。
電話越しに、同級生のさとの声が聞こえている。
「由乃ちゃん、お空綺麗だね」
「お星さまいっぱいだね、さとちゃん」
「私の家からはお花畑座が見えるよ。それに森の小道座に、小鹿さんのおうち座も」
これらの星座は、ふたりが勝手に作った星座だ。さとは既存の星座をあまり覚えていなかった。その代わり、自分たちだけの星座をよく作っていた。
「さとちゃん家からは、わたしたちの星座は見える?」
由乃は固定電話のコードをうんと伸ばす。しかしこの位置からは目当ての星は見えない。代わりに目を閉じて、今空に輝いているはずの星を思いだす。
冬の夜空で強い光を放つ3つの星。シリウス、プロキオン、ベテルギウス――。これらを繋いでできる図形は、俗に冬の大三角形と呼ばれている。
由乃たちもこの三角形の星座は好きだった。
さとは歌うように言った。
「シリウスは私の星。プロキオンは由乃ちゃんの星。ベテルギウスは……」
由乃はいつものように、からかい口調で続けた。
「ベテルギウスは駐堂くん?」
由乃は癖でその名前を言った直後、自分の口を押えた。しかし発した言葉はすでにさとに届いてしまっている。電話の向こうのさとは無言だ。
「ごめんね、さとちゃん。もう違うんだよね。ごめん忘れて」
「うん、忘れる」
「きっと見つかるよ。ベテルギウスになってくれる人」
その後の会話は盛りあがらなかった。由乃は自分の失言のせいだと分かっていた。
受話器を置き、由乃は大きく息を吐く。窓を開けると冷たい空気が入ってくる。白い息が夜の闇に溶けていく。
「……ごめんね、さとちゃん」
翌日。学校に行くと、さとは元気そうだった。
いや、見た目はいつも通りだが、ふとした瞬間に頬に暗い影を落としていた。そのたび由乃はギュッと心臓を掴まれた。
午前中は何事もなく過ぎていった。
給食が終わった後、ふたりは図書室に向かうため廊下に出た。
さとはようやく機嫌を取りもどし、給食に出た冷凍みかんが甘かったを何度も言っていた。
5年2組の前を通りすぎた直後、さとは足を止め、悲しげな表情で下を見た。
由乃は隣にいるさとに顔を向けた。すると、彼女の肩越しに2組の中が見えた。
あ、と小さく由乃は声を漏らした。だがその声は、2組の男子生徒の笑い声でかき消された。
教室には5人くらいの男子生徒が固まっていた。その中心にいる人物を、由乃はよく知っていた。
駐堂巻郎。
小学生なのに、外国人さながら鼻がシュッと尖っている。足が速く、サッカーが大得意。頭もいい。ついでにおうちもお金持ち。
田舎の小さな学校にはもったいないほどの逸材だ。
「駐堂くん……」
その呟きは由乃のものか、さとのものか。
どちらにせよ、駐堂はそのかすかな声に気づいた。彼は数秒こちらを見て黙った。厳密に言えば、彼はさとの顔を見ていた。
由乃はさとの手に触れた。ふたりでこの場から逃げようと思ったのだ。
しかしその前に、駐堂はこちらにやってきた。
「立ち聞きかよ。感じわりーな」
さとは黙って下を見ている。彼女は頬を内側から噛んでいるようにも見える。
駐堂はニヤニヤしながら、得意げに話を続けた。
「聞いてたと思うけどさ。オレの親、プラネタリウム買ったんだよ」
さとは言葉だけを反芻する。
「プラネタリウム……?」
「施設丸ごとじゃねーよ。持ち運べて、部屋の中をそういうふうにできるやつがあんの」
それでも高いやつだけどな。質問してもいないのに、駐堂は無駄な自慢を挟んできた。
「で、今日の放課後に、視聴覚室を借りて、上映会っての? プラネタリウム見る会をやろうって言ってて」
「うん」
「最初は男友だちだけ呼ぼうって思ったんだけどさ。まあ、ひとりくらい女も呼ぼうって思って……」
そこまで言うと、駐堂はさとを真剣な顔で見つめた。さとはまつ毛を持ちあげる。目が少し、きらきらしているような気がする。
駐堂はさとを見つづけた。由乃はもしかして、と思った。
もしかして駐堂くんは、さとちゃんのことが……。
そう思ったとき、駐堂はフッと笑った。
「女をひとり呼ぼうって言っててさ。そうだよなあ、千早!」
駐堂は教室の中に向かって声をかける。すると、ひとりの女子生徒がやってきた。
千早という女の子は、手足が長く、目鼻立ちもハッキリしていた。綺麗で、力強いオーラのある女の子だった。
駐堂は千早の肩を抱きよせる。
そして、さとに向かって言った。
「お前なんか呼ぶわけないだろ。お前がいたって、何も楽しくないからな」
ギャハハ、と駐堂は大声で笑った。千早も一緒に声を上げて笑う。
「……行こう、さとちゃん」
そう言って由乃はさとの手を引き、図書室へ向かっていった。
さとは足元ばかり見つめていた。
図書室に着いても、さとはろくに本を読まなかった。彼女の好きな本を持たせても、ページを開きすらしない。
由乃はぽつりと呟いた。
「ひどいよね、駐堂くん」
「……別に」
「何であんなこと言うんだろうね」
「だって、事実だもん」
由乃はさとの手を握った。
「わたしはさとちゃんと一緒にいて楽しいよ」
――さとは昔、駐堂のことが好きだった。
駐堂が先生に褒められると、さとはまるで自分が褒められたみたいに、身体を左右に揺らして喜んでいた。
冬の空に浮かぶ大三角形を見て、あれがさとの星、あれが由乃の星、と決めた後、「じゃあもう一個の星は誰かな」と由乃が言うと、さとは頬を赤らめて、「駐堂くんがいいな」と呟いた。
さとと駐堂がつきあったら、よく一緒にいるだろう。さとと由乃は仲よしだから、必然的に由乃もそのふたりと一緒にいるだろう。だからこの3人でひとつの星座。そういう考えらしい。
由乃は駐堂のことが好きでも嫌いでもなかった。だが「冬の大三角形の最後の星は、駐堂くんだよね」と言うと、さとが照れて面白いので、由乃はそのセリフをよく口にした。
でもそれは去年までの話。今のさとは駐堂に恋することをやめている。やめようとしている。
さとはまだ本を開こうとしない。由乃はさとに、別の本を持ってきてあげようと思った。
由乃が立ちあがったとき、図書室のドアが大きな音を立てて開かれた。
騒音とともに入ってきたのは、先ほど駐堂と一緒にいた女子、千早だった。
千早は不機嫌そうに言った。
「あれ? ここ視聴覚室じゃねえのか」
由乃は小声で言う。
「あの、図書室では静かに……」
「お前ら、さっき駐堂のとこに来た奴らか」
由乃の忠告も虚しく、千早はよく通る声で言った。由乃は顔をしかめ、いつもより低い声で尋ねた。
「何か用、なの」
「ついでだから教えてやる。お前ら、駐堂の迷惑になってんだよ」
「駐堂くんが言ってたの?」
「ああ。面倒なのに惚れられて困るって。さと、だっけ。そこの黙ってる奴。いい加減、駐堂に迫るのやめたら? ゲンジツ見なきゃ駄目だろ」
千早はフッと意地悪く笑い、首を傾げる。嫌な女の子だと由乃は思った。
すると、ずっと黙っていたさとが口を開いた。
「千早ちゃんは駐堂くんのこと、好きなの?」
「は? 知らねえよ」
千早はぞんざいに言って目を逸らしたが、頬が赤かった。案外、素直な性格をしているのかもしれない。
だからこそ由乃は、何か言わなければいけない気分になった。
「駐堂くんはやめておいたほうがいいと思う……」
「あ?」
「あの人、前に……さとちゃんにひどいことをしたから」
「何したの」
「それは、言えないけど」
由乃は口ごもった。さとが黙っているのに、勝手に言うわけにいかない。そう思ってのだんまりだった。
しかしその態度が、千早を増長させた。
「そういうの、負け惜しみ、って言うんだろ。あたいが駐堂のお気に入りだから、羨ましいんだ」
「あの」
「駐堂はあたいと一緒にいるのは楽しいんだってよ。……お前と違ってさ」
机に座ったままのさとに、千早は頭上から言葉を浴びせた。
由乃は抗議したいのに、上手く言葉が出てこない。ようやく絞り出したのはこの言葉だった。
「……さとちゃんのこと、わたしは大好き」
千早は目を見開き、顔を逸らした。
「あたい、放課後の準備あるから」
そう言って千早は駆けだした。
「ごめんね、さとちゃん」
由乃はぼそりと言った。もっとちゃんと抗議できたらよかったのに。さとは首を左右に振った。
「あの子が言ったのは本当のことだから。私こそごめんね」
「さとちゃんは悪くないよ」
「ううん」
さとは微笑んで首を振る。柔らかく微笑んでいるが、細く閉ざされた目の縁に辛さがにじんでみえる。
さとはいつもこうだ。自分のためには怒らない。
そして、臆病な由乃は彼女のために何もできない。
いつもこうだ。
放課後になった。家庭科室に忘れ物をしたことに気づき、ふたりで取りにいくことにした。途中でその教室が視聴覚室の近くだと気づいた。
視聴覚室では駐堂らがプラネタリウムの上映会をしているはずだ。
帰ろうと思ったときには、視聴覚室が見えていた。駐堂が大声で笑っているのが聞こえた。女の子と思われる、かん高い笑い声も聴こえる。
「あれ?」
さとが小さく声を上げた。由乃と同じ疑問を持ったのだろう。
その笑い声は、千早の声とは違う気がした。
不思議に思って近づくと、視聴覚室の前で千早が座っていた。抱えた膝に顔を埋めている。ひく、ひく、としゃくりあげるような声がした。
「どうしたの」
由乃が声をかけると、千早が顔を上げる。彼女の大人びた顔が涙で汚れていた。千早は力なく笑う。
「駐堂が、女子をひとり呼ぶって言ってただろ。あたい、自分が呼ばれたと思ったのに、でも」
室内からキャハハ、と高い声が聞こえる。
「もしかして、別の子を呼んだの?」
「勝手に勘違いした、あたいが悪いんだ」
千早は目を細めて笑った。ぎこちない笑みが、さとのものと重なった。
この子、さとちゃんに似てる。
でも、由乃が思ったのはそこまでだった。だから何、というのはなかった。彼女がさとを傷つけたのは事実なのだから。
もう行こう、という意味をこめてさとを見た。さとは千早を見ていなかった。視聴覚室のドアを見つめていた。
さとはドアをガラリと開けた。中にいた生徒は肩をびくりと震わせた。
さとは真っすぐ駐堂に向かっていった。彼がニヤリと笑ってみせる。さとは駐堂を見つめながら言った。
「謝って」
「何でお前に謝るんだよ」
「違う。千早ちゃんに」
「あいつは勝手に勘違いしたんだよ」
「でも千早ちゃん泣いてるよ。だから、ごめんなさいって言って」
千早が泣きながら「もういいって」と言った。しかしさとは聞こえていないのか、駐堂を見下ろして立ったままだ。
「ごめんなさい、して」
「嫌だよ」
「ごめんなさいしなきゃ、めっ! でしょ!」
さとは言いきかせるような口調で言った。そして、近くにあった机を手の平でバンと叩いた。
すると机は「M」の字のように、天板が大きく凹んだ。駐堂も、他の生徒も、千早も、目を見開いて固まっている。
由乃だけが状況を分かっている。
あー、さとちゃん。よっぽど怒ってるなぁ。力強いの、いつもは必死に隠してるのに……。
駐堂の友人たちはパニックになって逃げていく。駐堂もヘロヘロと立ちあがり、逃走準備を始める。
しかしさとが駐堂の行く手を遮ると、彼は苦笑いを浮かべた。そして千早を見て、「悪かったよ」と答えた。
千早は駐堂を見定めるように眺め、歯を見せて笑った。
「まだ足りねえな」
「何だと」
「謝れよ。さとにも!」
背の高い千早に上から怒鳴られ、駐堂は尻餅をついた。そしてさとのほうを見て、震える声で言った。
「わ、悪かったよ、オレが!」
そう言って彼は逃げだそうとする。さとはぽかんとした顔で質問する。
「このプラネタリウムのおもちゃは?」
「いらねー。くれてやる!」
捨てゼリフを残して彼は今度こそ逃げていった。
さとはのんきにプラネタリウムの機械を見つめている。その背後に、千早が歩みよる。
「あの……さと」
「なぁに」
「あたいもその、悪かった」
「何が?」
「悪く言ったから。さっき」
さとは何を言われているか分からないというふうに言った。
「謝ることなんて何もないよ。それより、これどうしたらいいと思う?」
「これって?」
さとはプラネタリウムの機械を手で示す。
「もらっちゃうのは、よくないし」
ずっと見ていた由乃が口を挟む。
「返そうよ。でもその前に、これ使ってみない?」
「使うって」
由乃は機械のスイッチを入れる。すると、カーテンを閉めた室内に美しい星々が現れる。
さとと千早が同時に「わあ」と声を上げた。
さとは千早に星の説明をする。
「あのお星さまはね、お花畑座っていうの」
「名前があるのか」
「あれは小人さんのおうち座。こっちは天使のイルカさん座」
これは自分たちで考えたもので、公に知られるものではない、と注釈しないところがさとらしい。由乃は思わず微笑んだ。
「あのギラギラしてる星は?」
「それと、こっちと、こっちで、3つでひとつの星座なの。冬の大三角形ってお名前があるみたい」
「ダイサンカッケー?」
「あの星は由乃ちゃんの星なの。こっちの星は私の星」
「もう一個は?」
千早は無邪気に質問する。さとは悲しそうに目を伏せた。
そしてさとは、千早の手を握った。
「千早ちゃん」
「何だ」
「私たちとお友だちにならない?」
さとが首を傾げてみせると、千早は口をあんぐり開けた。
「でもあたい、ふたりみたいに可愛くないし」
「千早ちゃんは可愛いよ」
「話あわねえよ」
「クマさんのシャーペン持ってたでしょ。私と由乃ちゃんも同じの持ってるよ」
「でも」
千早は由乃を見た。由乃は少し迷ったが、同じように手を伸ばす。
「さとちゃんのお友だちなら、わたしもお友だち」
由乃はさとの手も握る。
3人は自然と笑いあう。
プラネタリウムの星々が見守る中、3人はずっと手を繋いでいた。
その姿はまるで、3人あわせて夜空に浮かぶ星座のひとつになったみたいだった。
それから10年ほど経った今も、3人はずっと仲よしだ。
3人の居住地は変わり、東京になった。この町の空は星があまり見えない。
それでも3人は手を繋ぎつづける。
星がいつまでもそこにあるように。
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