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二月、泥で汚れた雪の黒が地を這っている。
白と黒、命の欠片すら感じられないような景色の中で僕の指先だけが赤く悴んでいる。
そしてそこに色を刺すように、翠色基調の生徒手帳を投げ捨てた。
全て投げ出してしまいたいと吐き棄てるように、僕は学生の証を投げ捨てた。
二十二時、僕だけの昏い街。
予備校の帰り道、背負っている荷物がのしかかる肩と背中が重く痛い。
街灯を避けるように、遠回りするように、何かから逃れるように、歪んだ愛情で磨かれた靴で、汚れた雪を踏んでいく。
門限の二十二時は疾っくの疾うに過ぎていて、本来ならそれらしい言い訳を幾つか絞り出さなくてはいけない時間。
予備校の先生に引き留められたとか、模試の結果についての指導を受けていたとか、帰りの電車が遅延したとか。そういうありえそうな嘘を幾つも頭の中に浮かべるだけの時間。
「澄」
空にした頭に響く。
僕を呼ぶ聲がする。
ヒステリックな母の聲でも、問いただす父の聲でも、担任教師の媚びへつらう聲でも、盲目的に数字を並べる予備校講師の聲でもない。
弱弱しくて、僕が振り向いた頃には消えてしまっていそうな聲。
「澄」
そしてもう一度、数秒前とおなじ誰かが僕を呼んだ。
二度目のその聲は酷く奇妙で『澄』という人間そのものに指を刺して罵り蔑むような聲だった。
無機質な何かに挑発されているような、そんな感覚。
「誰」
「『誰』なんて、そんな白々しいこと言わないでよ」
振り向いた先で立っている痩せ細った少年が、隙間のない真っ黒な眼で僕をみつめ、薄気味悪く口角をあげて僕へ言葉を投げる。
廃れた学生服を纏った彼の白く骨張った素足から痛々しく伝っている血液が、所々白く残っている雪の隙間を埋めてく。
背格好からして、きっと僕と同級生か二つほど歳下。なにも考えていないような空虚な表情と、なににも囚われていないような容姿。
僕とは、正反対の彼。
「見窄らしいね、君。羨ましいよ」
「僕は、綺麗な貴方が憎らしいよ」
その言葉に微笑を添えて、数メートル離れた先に立つ彼は足を引き摺って僕の前へと近づく。
彼はあきらかに不審人物だけれど、体格差的にも状況的にも僕が劣ることはない。僕が怪我を負うこともなければ、僕が怪我を負わせることもない。ただ抵抗せず、彼が僕の元へ辿り着くのを待つ。
「もう一度だけ言ってあげる。僕は、綺麗な貴方が憎らしい」
雪の残る裏路地で、僕は知らない誰かに憎まれていることを知る。
そしてその知らない誰かの力の無い腕で、僕は胸ぐらを掴まれている。
「手、痛いでしょ」
「痛くない」
「僕のシャツの襟に血が滲んでる、君の指の間から伝ってきた血が滲んできてる。それでもまだ痛くないって言える?」
「僕のこと、怒らないの?」
「何か君に僕が怒らないといけないことがあるの?」
「顔を合わせて数秒で、乱暴なことをするなんて普通の人なら怒ると思うから」
「それをわかってて、僕の胸ぐらを掴んだの?」
「そうだよ」
「どうして」
「わからない」
「手、離していいよ」
「え」
「僕、君の前から逃げたりしないから。僕を引き留めるために僕の胸ぐらを掴んでるなら、離していい」
彼は僕の言葉に従順に、僕の襟元から手を離した。彼の手の形が、血痕となって僕の襟に残っている。
そして少し息を切らしながら、僕の袖を指先で掴んだ。
その無言の指先に答えるように数センチ彼に近づいて問う。
「名前、なんていうの。君の名前」
「芥」
「芥……それが君の名前?」
「そうだよ、名前まで見窄らしいでしょ」
「見窄らしくなんてないよ、綺麗な名前だと思う」
「塵、屑」
「え」
「僕の名前『芥』の意味だよ」
「それ、本当に君の名前なの?」
「きっと戸籍に登録されてる名前なんかよりも遥かに僕の深層を模ったような名前だよ」
彼は誇らしげな表情で僕に笑みを向ける。
相変わらず見窄らしい容姿をしているけれど、不思議なほどに臭いはなく、僕が目を瞑ってしまえば彼の存在に気づかないほど無機質な存在。
人間というより、誰かの影をみているような、パペットの一人芝居に巻き込まれているようなそういう感覚。
「澄の眼、澱んでるね」
「え」
「澄の眼、澱んでるよ。僕の眼みて、綺麗でしょ?」
数分前、真っ黒で隙間のなかった眼の奥底に何故か光が埋まっている。
淡白で機械的な口調の彼とは結びつかない、生きた人間のような眼をしている。
「綺麗だね、確かに芥の眼は生きた人間の眼をしてる」
「澄、容姿は整ってるのにね」
「眼にみえるものの代わりに、本当の眼を喪ったのかもね」
「それでも手に入れたい何かが、澄にはあったの?」
「きっと違うよ。与えられたものを拒まずに掬っていったら、何が欲しかったのかすらもわからなくなったの」
*
『模範生』『優等生』。
僕の十七年間はその言葉に沿うような人間になるために造られてきた。
才能の無い僕に、両親は思いつく限りの才能を植え付けた。
人より早く字が書けるように、人より早く流暢な英語が話せるように、人より速く走れるように、人より手先が器用に動かせるように。
技術的な面で、僕は人より優位でいることを常に強いられてきた。
そしてそれを僕はいつからか拒むことを辞めた、正確にいうならきっと諦めた。
知識とそれらしい教養を詰め込まれた僕の頭は大人にとって都合が良い。
幼稚園の頃から現在に至るまで、僕は両親を含め『手の掛からない子』として扱われてきた。
ここで『天才』とラベルを授けて貰えなかったのは、きっと僕に生まれつきの頭の良さがなかったから。
当たり障りのない、波風を立てないような使い勝手のいい便利な子。
それが、僕だった。
『澄は、ひとりでもできるね。いつもみたいに』
僕には弟と兄がいて、近くには歳の近い従兄弟もいた。
全員同じ、まだこの世界を数年しか生きていない未熟なのに、それなのに何故か僕だけその未熟を赦してもらえなかった。
完璧を辿っても、正解をなぞっても、頭を撫でられることも僕をみてもらえることもない。
できなかったら呆れられて、視界から排除されて、二度と言葉を掛けてもらえなくなるだけ。
『模範生』『優等生』になる手段を与えられ、それを受け入れる度に僕は『透明人間』と化していった。
*
「澄」
「なに」
「家に帰らなくていいの?」
「僕はいいよ、芥こそ帰らなくていいの?」
「僕は澄がいいなら帰る必要なんてないよ」
知り合ったばかりの僕に、どうしてそこまで依存的な考えができるのか僕にはわからない。
そして訪ねてはいないけれど何故教えてもいない僕の名前を知っていて、みたこともないであろう僕の後ろ姿をみてその名前を呼んだのか。
僕には彼がわからない。
ただひとつ、彼が偶然の通行人ではないことだけは直観的に確かにわかっている。
「芥」
「なに」
「芥の家、いってもいいかな」
「信用もしてない人の家に泊めてくれなんて、澄は変な人だね」
「今、僕のこと変な人って言った?」
「そうだよ、澄は充分過ぎるくらい変な人だからね。僕はよく知ってるから」
「芥はさ、僕のこと、どこまで知ってるの」
「きっと誰よりもどこまでも知ってるよ」
「僕は初めて芥を知ったよ」
「それはこの瞬間まで澄が僕をみつけられなかっただけだと思うよ」
持っていたハンカチで、彼の手についた血液を拭う。
どこか申し訳なさそうな表情をしながら、抵抗する素振りもなく僕へ身体を委ねている。
その姿は何故か少し幼くみえて、それが可愛らしく思えてきた。
「芥はどこからきたの」
「どこだろうね、僕も『どこ』って答えることが正解かわからない」
「そっか」
「澄」
「ん?」
「本当に家に帰らなくていいなら、僕とこのまま日付が変わるまでここにいてよ」
「いいけど、どうして」
「澄のこと知らないと、僕ちゃんと消えれないからさ」
「よくわからないけどいいよ。それで、芥は僕の何を知りたいの」
「澄は将来、どんな人間になりたい?」
「急に哲学的な話をするね」
「きっと僕が思う以上に、時間がないと思うから」
「どんな人間……そうだね、少なくとも何かに囚われて生きていくだけの人間にはなりたくないかな」
「澄は『どんな人間になりたい』より『こんな人間にはなりたくない』が先に頭を過るんだね」
「こういう捻くれた人と夜遅くまで一緒にいて、本当にいいの?」
「僕はそっちの方がいい。遮ってごめん、続き、聴かせてよ」
「何かに囚われながら生きるって、生きた心地がしないから。だからそうはなりたくないって話だよ、どうなりたいかはわからない」
「何かに囚われて生きていくだけの人間、確かにそれは息が詰まりそう」
「きっと僕じゃ到底無理な話だけどね、何にも囚われないなんて」
「澄は何に囚われてるの?」
「誰かが造った正解かな、誰かが造った『澄』の正解形に囚われてる」
「つまらなくならないの?」
「つまらないよ、すごくね」
「つまらないことを、十七年間も続けてきたの?」
「そうだね、気づいたら十七年経ってたよ。可笑しいよね」
「可笑しいね、残酷なくらい可笑しいよ」
淡々と、そんな話が続いていく。
話を始めてから彼の表情には奇妙なほどに変化がない。遠くのどこか一点をみつめたまま、口だけが動いて、相変わらず無機質な声で言葉を吐く。
「芥は」
「え」
「芥は、今何歳なの」
「十七だよ」
「同い年か」
「そう、澄と同じ年数をこの世界で生きてる」
「そのわりに小さいね、手とか背とか」
「下向いて背を丸めてるうちに、本当に小さくなっちゃったんだ」
「笑えない冗談は辞めてよ」
「冗談なんかじゃないよ。僕は本当のことしか言えない」
そう言って、表情を変えないまま俯く。
彼の背中は肩が内側へ入り込んでしまっているほど極度の猫背で、それでいて背を丸めた姿は言葉では表せないほど小さい。
なんというか少し、惨めさすら感じる。
たった数十分前に出会っただけの彼に、自分の影を重ねて同情してしまう。
「芥は学校には行ってないの?」
「行ってるよ、それも割と頭の良い進学校にね」
「どこ?」
「いずれわかりたくなくてもわかるよ」
「そっか、芥はきっと僕より遥かに賢いね」
「そうだね、何かに囚われて萎縮してる澄よりは僕の方が幾分も賢いと思うよ」
「そんなに賢い芥はさ、どんな人間になりたいの?」
「そうだね、強いて言うなら僕のことを裏切ったあの人とひとつになりたい」
「え」
「言葉の通りだよ、最後、人生の本当に最後でもいいから。僕はもう一度だけ、あの人とひとつになりたいんだよ」
「どうしてその人とひとつになりたいの?」
「考えてみてよ」
「執着……好きだった人だから、とか?」
「違う」
「僕にわかるはずがないよ」
「その人に報われてほしから」
「え」
「その人が、その人自身を生きてほしいから。だからひとつになりたいの、ひとつに戻りたいの」
「芥は優しいんだね」
「僕は、取り残されただけだよ」
「取り残された?」
「その人は絶対、僕のことを思い出してはくれないだろうから」
「思い出してくれるよ、きっと素敵な人なんだろうし。それだけ想ってる芥のことを、忘れるはずないよ」
「どうしたらその人、気づいてくれるかな」
「その人に会った時に、名前を呼んで手を繋いでみたらいいよ。僕の名前を呼んで胸ぐらを掴んだ時みたいにね」
沈黙が襲う。
彼は俯いたまま、僕はそんな彼をみつめたまま。
彼が息を吸う、一度呑み込んで、そしてもう一度息を吸う。顔をあげて、何かを告げようとする唇が動く。
「澄、戻れるならどこまで過去に戻りたい?」
「いつだろう、幼稚園くらいかな」
「どうして」
「有名な私立幼稚園になんて通わなくていいから、たまに家の近くの公園を通り掛かった時に手を振ってくれたあの子達と同じ幼稚園に通いたかったから」
「澄、高校卒業したらなにになりたい?」
「まずは家を出て、本を溺れるくらい読みたい。そして詰め込まれただけの教養を洗い流して、僕の眼でみた正しさで頭を埋め直したい」
「澄」
「ん?」
「いつから正解に抗うことを辞めたの」
「いつからだろうね、でもきっと小学生になった頃には無意識のうちに抵抗しなくなってたんじゃないかな」
「どうして辞めたの」
「正解ばっかり押し付けられるとさ、本当の僕は全部不正解で、それを正せない僕は醜いんだって思っちゃうようになったんだよね。だから無意識に辞めちゃった」
「澄はそのこと、悔やんでないの?」
「時間が戻るならやり直したいって思うけどね、きっとそうもいかないから。だからちょっと悔やむことすら、今は諦めようとしてるのかもね」
「澄」
「なに」
「僕が今、澄の手を握ってる意味、わかる?」
暖かさのない、重さもないような、白く細い形が僕の手の上に乗っている。
感覚はないけれど、彼なりの力で僕の手を握っていることだけが眼でみてわかる。
「教えてほしい、僕には考えてもわからないから」
「僕がひとつになりたい人が、澄だからだよ」
「でも僕、芥のこと記憶の欠片にも残ってないよ」
「そうだよ、それも知ってる。だから言ったの『その人は気づいてくれない』って」
「……え」
「だって僕は」
__ 『澄から消された過去の詰め物だから』
「どういう意味……芥は芥だよ、僕の過去なんかじゃない」
「澄が誰かから与えられた正解を拾っていくたびに棄てられてきた醜さの塊が、僕、『芥』なんだよ」
「違う、そんな棄てた眼にみえないものが人の形になって動くなんてわけがない」
「最初に言ったでしょ『芥』の意味『塵』『屑』って。そのままの意味、塵みたいに、屑みたいに棄てられた過去が僕なんだよ」
僕が生きてきた十七年で手放してきた醜さの塊が、目の前の彼。
その告白が、彼の人間らしくない無機質さ、淡々とした口調、不審な程に僕のことを知っているような口ぶり、その全てに答えを出した。
「澄」
「……何」
「どうして僕を消したの、どうして僕を棄てて生きることを選んだの」
「僕が生きていく中で、誰かに認められるためには棄てるしかなかったからだよ」
「棄てて何か変わった?」
「変わらなかった、いい意味でね」
「それって本当にいいことなの?澄は幸せ?」
「それなりに不自由はないよ」
「囚われた答えだね、つまらないってそういうの」
「どうしてそんなに否定的なの」
「だって、澄自身をみてる人なんて誰一人いないじゃん」
頭の中でいつも引っ掛かっていた僕という透明人間。
それを、逃げ逃れてきた過去という形が指を刺している。
隠し続けていた反抗心が、眼を逸らしていた孤独感が僕の中で五月蝿く飛び回る。
僕が過去を消したのは、盲目的に僕が僕を認めたことにするため。
「何を言っても伝わらなそうだから僕はいくよ」
「芥」
「なに」
「芥はどこにいくの、また戻ってきてくれる……?」
「そんなの澄次第だよ、そんな僕と澄が物理的にひとつになる方法なんてない。そもそも僕は人間じゃないからね」
「僕はずっと、何かに囚われたままな気がするんだ。だから、芥とひとつになりたい」
「何か勘違いしてるみたいだけど、僕は過去でしかないんだよ」
「……え」
「消したものも棄てたものも戻ってこない、時間なんて戻ってくるわけがない。そうやって失いそうになった瞬間、危機感に駆られて縋ってる時点で澄はまた違う芥を造るだけだよ」
握りしめていたハンカチを僕の膝の上へ返す。
破れかけた学生服の裾についた泥を払って、彼は身軽に立ち上がる。
そして振り返ることもしないまま足を進める、彼の影が遠くなっていく。
引き留めようとした声が喉につかえる、それを察したかのように彼は進む足を止めて僕の方へ振り向く。
「ねぇ、澄」
「なに」
__ 「僕のこと最初に見窄らしいって言ったけどさ、本当に見窄らしいのって棄てた過去と何も無い今。どっちなんだろうね」
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