第一幕 リラと王子 10.人形の心

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第一幕 リラと王子 10.人形の心

 黄昏色の空を鴉が三羽、西に向かって飛んでいく。歓楽の館〈眠れる森〉にはいたるところに鴉避けの仕掛けがあり、高い塀には彼らを撃ち落とす魔法の矢も備えられていた。それでも鴉は毎日西から飛んできては矢の届かない高所を飛び回り、また去っていくのだった。  オートマタのロラは城館のバルコニーに立って、鴉の黒い影が砂粒のように小さくなり、ついに消えてしまうまでみつめていた。  主人である魔法使いのリラが鴉を忌み嫌っていたので、ロラは主人の前でけっして鴉の話題を出さなかった。しかしロラ自身は鴉を嫌ってはいなかった。彼らの漆黒の翼はロラの髪に似ていたし、彼らが魔法の矢をはじめとしたさまざまな仕掛けを巧妙にかいくぐるのをみるたび、その賢さに感心した。  ロラもまた賢いオートマタだったから、主人が気に入らないとわかっていることをいちいち告げたりしなかった。  リーンゴーン、リーンゴーン……  時を知らせる鐘の音とともにロラは館の中に戻った。〈眠れる森〉は今日も賑わっていた。茨の森を囲む三つの国から歓楽を求める人々がひっきりなしに訪れるのだ。兵士や裕福な商人にまじって王侯貴族や政府高官も訪れたが、リラは館に扉と迷路の魔法をほどこして、来客が他の客の顔をみたりすれちがったりすることがないようにした。壁一枚をはさんで敵対する国の要人がいてもけっして相手に気づかないのである。  ロラは客の相手をする館の者たちの様子を見まわる。厨房や洗濯係や厩番にも声をかけ、必要な指示を出す。警備兵と庭師だけはリラが用意した魔法の召使だったが、ほかはみな人間なのだ。 「ようこそいらっしゃいませ。〈眠れる森〉のあるじ、ロラです」  ロラは訪れた客にも必ず挨拶をした。初めてロラに会った者はひとりの例外もなくその美貌に目を瞠る。中には居並ぶ美男美女ではなくロラ自身を求める客もいる。黄金と宝石を満載した馬車で乗りつけロラを要求する王侯貴族もいたが、彼らがロラに単なる快楽を期待している場合は、丁重に、しかし容赦ない方法で――彼らが二度とそんなことを思いつかないようになるくらい――断られるのが常だった。  とはいえ彼らは最終的に満足して帰るのである。敵対する二国の高官がそれぞれの部屋で歓楽の一夜をすごしたあと、戦争をやめてしまったこともある。 〈眠れる森〉の夜は長いが、ロラは夜がふける前に人々の前から消えた。というのも美しいオートマタにはこれから別の役目があるからだ。この館の真の主人、魔法使いリラを慰める役目である。  若く美しい館の主人が起居するのは城館の西の塔だ。だが館の者も訪れた客も、その中に〈眠れる森〉の本当の主人、魔法使いのリラがいるのを知らなかった。  この歓楽の館の営業が軌道に乗ってからというもの、リラは新しい魔法の研究に明け暮れていた。眠る必要のないロラは夜になるとリラの意のままになるのだった。  今夜も西の塔の絹の褥で、ロラはリラに組み敷かれ、細い腰に太い楔を何度も打ちこまれて喘いでいる。なかばひらいた桜色の唇からは唾液が糸をひき、うるんだ眸からは涙がこぼれおちそうだ。リラが腰を進めるたびに中で襞がきゅっとしめつける。彼が達すると同時にロラも声をあげ、全身を震わせる。リラが満足して横たわると、ロラも魔法使いにすがるように体をよせる。  ところが実は、リラに抱かれているあいだ、ロラ自身に肉の悦びはまったくないのだった。ロラは人形だから、人間のような肉体の感覚を持たないのだ。しかしリラのために感じているふりをすることはできた。そうすればリラは興奮し、ロラの中に精を吐き出す。  リラが満足するとロラは嬉しかった。ロラはリラのために、そうなるように作られたのだから。  もっとも最近、リラに仕える夜の時間に、ときたまおかしなことが起きるのだった。  リラの魔法の力を分け与えられているから、ロラはほとんど眠る必要がない。リラと交わったあとにやってくるごく短い眠りのあいだも単にボディが動かなくなるだけで、人間のように意識を手放すわけではない――はずだった。  ところが近頃のロラは時たま、リラに奉仕している最中に自分を失うのだ。リラに乱暴に揺さぶられて気がつくと、まるで本当に肉の悦びを感じたかのような錯覚をおぼえる。褥はおのれの体からあふれた雫でぐっしょり濡れていた。  でも、ロラはそのように作られているだけなのだ。そんなことは百も承知しているのに、一瞬の空白のあとで意識を取り戻したロラの体には、自分にそっくりだが自分ではない誰かの叫びがこだましているのだった。 (僕はオーロラだ) (僕はどこにいる?)  翌日になってもこだまはオートマタのボディにくりかえし響き、いつしかすっかり馴染み深いものになった。  実をいえばこの現象がはじまったのは、ロラが最初に塔の外に出るのを許された日のことだった。その時リラはロラを従え、魔法で荒廃した城を美しい城館に作り変えていた。ロラもリラを手伝い、城のいたるところでそれまで学んだ魔法を使った。オートマタは主人の役に立てることが嬉しくてたまらなかった。  しかし庭園のとある一角に来た時、ロラは突然意識を失い、前のめりに倒れてしまったのだ。  リラに揺さぶられて気がついたあと、最初のこだまがロラの体に響いたのだった。 (僕はオーロラ。きみは誰?) (僕はロラ) (ちがう、僕はオーロラ。きみもそうだ。きみは僕で僕はきみだ。きみはオーロラだ) (オー……オウ……アウロラ?) (……オーロラだ。もう一度)  (僕は……アウロラ) (……それでもいい。きみはアウロラだ。アウロラ、僕はきみできみは僕だ)  今夜、ロラが絹の褥から起き上がると、リラは鏡の魔法を使ってどこか遠くの景色をみていた。  最近の主人はロラの知らない新しい魔法を試しているが、教えるつもりはないらしい。眠れる森の経営を怠りなく、周辺国の王侯貴族から報酬をたっぷり巻き上げろと命令するばかりだ。  リラはひとつだけ教えてくれた。 「私は戦いの予感が現実になる日のために備えている。それは間近に迫っている。そうだ、今後は絶対に鴉に姿をみせないように。私は彼らを完全にこの地から追い払う」  オートマタの堅い忠誠心の下でぐらりと何かが揺れた。  城館のはるか上で舞う鴉たち。彼らを見るのが好きだったと、ロラはこのときはじめて気づいたのだ。しかしロラは揺らぎを押し隠した。リラに対して喜びを感じるふりをするように、そんなものはなかったふりをした。   *  オートマタのロラは魔法使いリラの最高傑作である。  リラはロラのできばえにおおむね満足していた。とはいえ、試作も含めて何年もかけたのに、いまだに時たま不具合が起きるのだった。急に動きをとめたり、教えたことを忘れたようにふるまうのだ。  夜の奉仕をさせている最中、菫色の眸から急に生気が抜きとられ、ぼんやりとリラをみつめることがたびたびあった。リラが調整の魔法をかけなおすとオートマタはぎこちなく動きはじめたが、夜伽に慣れているはずの指も体も怯えたように震えるのである。しかしリラがかまわず中をつらぬいて揺さぶると、やがて自分から腰をふって愉悦に泣きはじめ、しまいにリラは満足するのだった。  人形に欠陥があると人間のようにみえる。そうリラは思った。そして同じようなことが起きるたびになぜかカラボスを思い出すのだった。あのころのカラボスはリラと同じ師のもとにいて、リラに思いをよせていたくせにそれを口にすることもできない反抗的な少年だった。  今度こそおまえを徹底的に叩きのめしてみせよう。カラボス。私こそが主人だと思い知らせてやるのだ。 〈眠れる森〉の上空にいる鴉たちはカラボスの使い魔だとリラは完全に承知していた。魔法使いは戦いの魔法を磨き続けた。
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