第二幕 リラとカラボス 1.十三人目の魔法使い

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第二幕 リラとカラボス 1.十三人目の魔法使い

 さて、時はすこしだけさかのぼる。それは〈眠れる森〉の城館が歓楽をもとめる人々を迎え入れるより、ほんのすこし前のこと――。  夜が明けてまもない空は硝子のように透明な青に満たされていた。東の地平に昇る太陽の光が西の果ての山地に達し、夏の森を静かに照らす。  朝日がさしこむ照葉樹の森を黒衣をまとった青年が歩いている。サンダルを履いた足にはまるで重さがないようで、露をまとった下草は踏まれてもすぐに起き上がった。  青年の顔は半分以上黒髪で覆われていた。ぼさぼさの毛先はまったく整えられておらず、黒衣にもまるで飾り気がない。だが明るい緑の森の中ではけっしてみすぼらしくみえなかった。  もし――十五年とすこし前、フロレスタン国が王子の誕生を寿いだ日、祝宴の場に居合わせた者がそこにいたならば、青年の正体がわかったはずだ。それは十三人目の魔法使い、カラボスだった。  カラボスは巨木のそばで立ち止まった。高い梢をみあげると黒髪が流れ、削ぎ落されたような野性的な顔立ちがあらわになる。肌の色はあまり日に当たらなかった人の不健康な白で、体躯は枯れて丸裸になった木のように痩せていた。  それでもカラボスにはある種の美しさがあった。それは磨かれ、守られ、手入れされた末に生まれる繊細な美ではなく、野性の獣のような生まれつきの美だ。狩人と対等に戦い、おのれの独立を決して手放さない者だけが持つ誇り高い美、たとえ万人が認めるものではなくとも、美の本質を理解する者ならどんな意味であれ無視できない、そんなたぐいの美しさだ。  カラボスは梢で揺れる木の葉をみつめてまばたきし、次の瞬間軽く膝を曲げて跳躍した。まるで小鳥か小動物のように、枝を足掛かりにしながら上へ上へと昇っていき、たちまち巨木のてっぺんにたどりつく。そこは森をみはるかす高さで、東の低地まで見渡せる絶景だった。  鳥のように緑の枝にとまったまま、青年は誰にともなく語りかけた。 「おはよう。どうだ、今日の空は?」  カァ、カァ。  鴉がこたえた。カラボスの声はなめらかさからは程遠く、耳障りな響きを帯びていたが、鴉たちには問題ではなかった。  梢から一羽が飛び立ち、さらに一羽、また一羽と、鴉の群れが青年にこたえるように啼きかわしながら飛び交った。カラボスは笑みを浮かべたまま宙に片手をさしのべる。群れの中からひときわ大きな一羽がまっすぐ腕へ下りてくる。ばさりと広げた羽根が青年の頬をかすめて、またきちんと畳まれる。ははは、とカラボスは笑い、大鴉の頭を軽く撫でた。 「みんなごきげんだな。さあ、今日も世界を知りにゆけ。俺を退屈させるなよ」  カァ。大鴉が命令するように啼いた。森の上を飛び交っていた群れはそれを聞いたとたん四つの編隊に分かれ、それぞれちがう方向へ向かい始める。最後に青年の腕から大鴉が舞いあがると、東へ向かう編隊のしんがりについていく。  朝日がまばゆく輝く空のなか、群れはやがてみえなくなった。しかしカラボスは腕を組んだまま巨木のてっぺんに留まって、風の行方を読んでいた。しばらく宙をみつめたあと、彼は指をくるりと回した。すると南の低い空にかかった暗い色の雲がちりぢりになって消えてしまった。おかげで南へ向かった鴉たちは心置きなく翼をはためかせることができた。  これはカラボスが得意な魔術だった。彼は生まれながらに天候を操ることができたのだ。翼あるものと心を通わせられるのも生まれつきの力だった。しかし遠い昔、カラボスが生まれた村はその力ゆえに彼を忌み嫌い、両親をはじめとした村人は彼を殺そうとした。  そんなカラボスが死ななかったのも彼の力ゆえである。川に流しても崖から突き落としても、石を投げつけても、風と水は赤子のカラボスに味方した。万策つきた村人はカラボスを森に捨てたが、森の木々は彼を守り、狼と鴉が彼を育てた。  だからカラボスは人よりも鳥や獣にずっと近かった。師となる魔法使いに出会ってはじめて、人としての生を得たのである。とはいえそれも遠い遠い昔の話で、今のカラボスは鳥や獣のような生き方はしていない。だがふつうの人間のように人々のあいだで生きているわけでも、その力を人のために役立てているわけでもなかった。カラボスは鳥や獣の上に立つ王のように生きていた。  人の生にたいして興味もなかったし、人の栄誉を得たいとも思っていなかったが、彼は人間に裏切られるとひどく腹を立てるのが常だった。それはかつて兄弟子のリラが彼を手ひどく裏切ったせいかもしれなかった。カラボスの声が今のような不快な響きになった原因はもとはといえばリラにあった。  おそらくリラがいなければ、カラボスはフロレスタン国の王子に死の呪いをかけることはなかっただろう。  とはいえあの出来事も今のカラボスにはとっくに過ぎたことだった。彼が放った鴉はフロレスタン国の王子を紡ぎ車へ導き、王子は針に刺されて死んだはずだ。  子供がひとり死んだところで国が消えることはない。かつて親に殺されるところだったカラボスは、冷酷にもそう考えたのだった。  あの日はたくさんの死があった。死の呪いの成就を見届けるため、カラボスが送りこんだ鴉たちが、リラの放った毒の魔法で死んだのだ。死の呪いを使ったことをカラボスが悔いたのはそのあとのことだった。  とはいえ、カラボスは自分の呪いがフロレスタン国の未来を左右するとは思っていなかった。狼の一頭が狩人の矢に倒れたとしても、群れが消えることはないはずだ。  ところがカラボスの予想に反して、フロレスタン国の運命は不思議な道筋をたどった。まるで統治する者が急にいなくなったかのように、他国の軍隊が領土を侵し、盗賊があちこちを跋扈するようになったのだ。農民や職人は土地を捨てた。民のいない国には実質がなくなった。  カラボスはフロレスタン国の滅亡に何の手も貸さなかった。もし彼がそのために何か試みていたら――フロレスタン国にとてつもない嵐を呼び寄せるとか、竜巻で何もかも地上から巻き上げてしまうとか――もっと早くフロレスタン国はなくなっていたことだろう。  しかし民がいなくなっても城は王国の中心に建っていた。カラボスが放った鴉は魔法使いの執拗な攻撃を受け、中に入るのを拒まれる。  いったいリラは何を護っているのか?  カラボスは不思議に思っていた。彼はまだ知らなかったのだ。オーロラ王子が死んでおらず、百年の眠りについたことを。リラが王子を護りつづけていることを。
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