第一幕 リラと王子 4.菫色の眸

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第一幕 リラと王子 4.菫色の眸

 空は夜の濃紺から薄い青へ、東の地平線は金色にかわった。新しい日がはじまろうとしている。純白の石で作られたフロレスタン国の城は朝の色に染められたように彩りを変えていく。  その一室で、オーロラ王子は夜明けとともに目覚めた。  いつもはこんなに早く起きないのだが、今日は特別な日だった。十五年前の今日、オーロラは生まれたのだ。今日は国をあげた祝宴が予定されている。  王子はひとりで身支度をすませた。フロレスタン国では王族だからといって、召使が手取り足取り着替えを手伝ったりしない。陶器の水盤で顔を洗い、髪にブラシをかける。しなやかで細い、絹糸のような手触りの黒髪がさらりと王子の肩に垂れる。  水盤のむこうの鏡からは菫色の眸がみつめかえしている。黒髪にかこまれた顔は彫刻家が刻んだ理想の美そのもので、何の表情もなければ人間ばなれした冷たさを感じたかもしれない。しかし王子の目元や眉がわずかに動くだけで、ただの美は愛らしさに変化する。  深い菫に煙る眸は王子の顔立ちをより神秘的にみせたが、桜色の唇が小さな笑みをかたちづくると、表情になまなましい官能性が加わった。なめらかな肌にはしみひとつなく、ブラシを握る細い指の動きにも優雅さがただよう。白鳥の首のようにのびた肢体も、見た者の心をとらえて離さない艶めいたものを漂わせている。  しかしオーロラは自分の外見にも、その所作が見る者にどう思われるかにも無頓着だった。壁に祝宴のためにあつらえた衣装がかけられていたが、今はまだその時間ではない。王子はいつもの服を着ると廊下へ出た。回廊の衛兵が王子をみたとたん、しゃきっと背筋を伸ばす。 「おはよう、ロブ」 「殿下、お早いお目覚めですね。シーラを呼びましょう」  幼いころから見知っている衛兵である。この衛兵がはじめて城の警備についたころ、オーロラの声は天使のように響いていた。変声期を過ぎた今は耳に心地よい中くらいの高さで、話しぶりはカスタードのようになめらかだ。  この衛兵をはじめ、王子の周囲にいる者は長年城に勤めた信頼のおける者だけだった。身の回りの世話をする召使のシーラも例外ではない。オーロラがいつもと同じ時間に目覚めたなら、もう扉の前にいたはずだ。  王子は首をふった。 「いや、いいよ。今日はみんな忙しいからね。シーラに会ったら、着替える時だけ手伝ってほしいと伝えてくれないか」 「わかりました」  オーロラ王子が歩いていくのを衛兵は見送った。王子の身のこなしは優美で軽やかで、所作には独特の艶がある。今も比類なき美少年といえるが、あと数年もすれば若者の瑞々しい色気に男も女も惹きつけられるようになるだろう。  十五歳のわりに大人びた口ぶりは魔法使いリラの教育の賜物である。オーロラのあと王妃が身ごもることがなかったので、王は王子を目に入れても痛くないほど可愛がり、召使をはじめとした城の者たちも、少数の例外をのぞけば王子を甘やかしがちだった。しかし魔法使いで教育係のリラは、フロレスタン国王のただひとりの後継ぎであるオーロラ王子が一国の王にふさわしい人間になるよう、きちんと教育することに力を注いだ。  リラはさまざまな意味で甘い教師ではなかった。あなたはいずれ王として人々の上に立つことになる。そんなありさまで民がついてくると思うのか、と、ともするとリラは厳しいことを告げたものである。まだ分別のつかない頃のオーロラはそんなリラに反発したこともあった。しかし十五歳を迎える今は、魔法使いの厳しさの裏に両親とは種類の異なる愛情があることもよく理解していた。  とはいえオーロラはまだ十五歳だ。好奇心旺盛で、まだまだ遊んでいたい年頃でもある。それに王妃はオーロラを身分の差にとらわれない、思いやりのある人間に育てようとしたから、城には王子の友達がたくさんいた。小姓や騎士見習いとして城にいる貴族の子弟から、厩番の少年に厨房の下働き、庭師や職人まで、王子はさまざまな人々と接して育ったのである。  いつもなら彼らは仕事の合間を縫ってオーロラにかまってくれる。だが今日はそうもいかないようだった。午後にはじまる祝宴の準備のため、夜が明けてそれほど時間もたたないのに、みんな忙しそうだった。厨房はいい匂いのご馳走を仕込んでいるし、召使は大テーブルをずらりと並べた大広間を掃除している。庭園にはテントがいくつも建てられ、そのあいだを花火職人たちが荷車を押して通っていた。  その様子は十五年前とよく似ていたが、もちろんオーロラはそんなことは知らなかった。  誰もかまってくれないといっても、オーロラはがっかりすることもなかった。リラは王子に、どんな身分であっても他人の仕事は尊重するものだと教えていた。朝食の時間まで誰の邪魔にもならないように、あちこちをのぞいて歩こう、とオーロラは決めた。  実をいえば魔法使いのリラは昨日、祝宴がはじまるまで自室にこもって勉強するよう、オーロラにいいつけていた。しかし自分の誕生祝いの祝宴がどんなものになるのか、オーロラは気になってたまらなかった。昨日ベッドに入ったあとも興奮でなかなか寝付けなかったし、好奇心がふくらんで口からあふれそうなくらいだった。  リラが城の塔を出てくるのはいつも朝食のあとだ。それまで少し、あたりをみてまわってもかまわないだろう。  というわけでオーロラは階段を下り、回廊を歩き、中庭をつっきって厩をのぞいた。長い鼻づらが王子の方をむき、かしこい眸が輝く。 「みんな、おはよう」  王子の声に馬たちが鼻を鳴らす。彼らも王子の友達なのだ。厨房からは煙と湯気といい匂いが漂ってくる。オーロラはすれちがう下働きの者たちに笑顔を向けて、また城の中に入った。  今度は大広間に飾りつけ用の羊歯と花が運ばれるところだった。床には切りたての香草がまかれ、清潔な緑の香りが漂っている。わくわくしながら大広間を離れたとき、書記見習いの少年がインクの壺をささげもって急ぎ足で歩くのがみえた。リラの塔に行くのだろうか、南側の階段を登っていく。  魔法使いのリラは王の許しを得て、城の東西南北にある四つの塔を魔法の研究のために使っていた。そのうちオーロラ王子が自由に中に入れるのは東の塔だけである。この塔は壁をぎっしりと蔵書に覆われているが、最も上にある部屋には四面の窓があり、ここでリラは王子に勉学を講義するのだ。  北と南の塔の中も、王子はリラに何度か見せてもらっていた。リラはこの二つの塔で、王国の役に立つさまざまな魔法を研究していた。リラは魔道具もたくさん考案したが、その中には人々の生活をとても便利にするものもあったし、魔法全般について何冊も書物をあらわしもした。だから北の塔には職人が、南の塔には書記が、リラの命令に応じてよく出入りしたのである。  しかし最後に残った西の塔には城の誰ひとりとして立ち入りを許されなかった。リラはオーロラが物心ついたころにはこの塔で寝起きしていたが、寝所を片づける召使すら入れようとしなかった。  オーロラ王子は見習い少年を見送りながら、ふと、東の塔へ登ろうと思いついた。塔の部屋にある四つの窓のうち、城の外側へ向いたふたつの窓からは麗しいフロレスタン国の風景が眺められる。王子は東からやってくる商人の隊列をみるのが好きだった。生まれてこのかた一度もフロレスタン国から出たことがなかったので、十五歳を迎えるいまは外国に対する憧れをおぼえるようになっていた。  でも今日は自分の誕生日で、いつもとはちがう日だ。そのせいだろうか。東の塔の最上階にたどりついたとき、オーロラ王子はなぜか、城の内側に向いた窓をあけたのである。  窓からは小塔がみえた。城の東西南北にある四つの大きな塔にかこまれるように、細く尖った小さな塔がそびえている。これまでまったく気にしたことなどなかったのに、オーロラの視線は吸いこまれるようにその小塔をみつめていた。見慣れぬ影が動いたためだった。  ――真っ黒の鳥がいる。  オーロラは小塔にとまった黒い姿をじっとみつめた。羽根はおろかくちばしまで漆黒の鳥を王子がみるのは生まれて初めてだった。王が鴉を嫌ったので、フロレスタン国で鴉をみることはめったになかった。特に城へ寄りつく鴉はいなかった。猟銃でかたはしから撃ち落されたし、森にはリラが作った魔法の鴉罠が仕掛けてあって、すぐに殺されてしまうのだ。  オーロラはそんなことは何も知らなかった。リラにさまざまな知識や歴史を教えられていたが、自分の誕生を予言した西の魔法使いのことも知らなかったし、十五年前の宴の日に何が起きたのかも知らなかった。王子はじっと黒い鳥をみつめた。そんなに大きな鳥ではなかった。いや、城の鷹匠が飼っているいちばん小さな鷹よりもっと小さい。つやつやした黒い羽根はこれまでみたこともないくらい綺麗で、敏捷な動きはこれまでみたことのある他の鳥よりずっと賢そうだった。くちばしまで真っ黒で、頭をふる様子も可愛らしい。  そう思った時、いきなり鳥がオーロラをふりむいた。まるで見られているとわかったかのように。それからまた塔の方へ向くと、小窓を何度かくちばしでつついた。小窓に小さな隙間がひらく。  オーロラは魅入られたようにみつめていた。黒い鳥は頭を隙間につっこみ、器用に体をひねって、小塔の中へ消えた。  ふうっと息を吐く音が聞こえたが、それはオーロラ王子自身の吐息だった。窓枠を握る手もすこし震えている。オーロラは小さな黒い鳥がやってのけたことにすっかり心を奪われていた。  どうしてこれまであの小塔をまともに見ていなかったのだろう。あんな鳥が来るとは思わなかった。それもあんな風に中に入ってしまうとは。ひょっとして、塔の中に巣をかけているのだろうか――そう思いついたとたん、オーロラの心は躍った。  城のどこへ行けばあの塔に登れるのだろう。リラの西の塔のように禁じられている場所は別として、オーロラはこの城の廊下や階段が通じる場所をみんな知っていると思っていた。でもあの小塔の入口がどこなのかは、これまで考えたこともなかった。  急いで小塔に登ったら、今の鳥をみつけられるかもしれない。  そう思ったとたん、オーロラの若くしなやかな体はもう部屋の外へ飛び出していた。東の塔を駆け下りると、王子は城の中央部分へ、王と王妃の寝室に通じる廊下へと走った。
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