第一幕 リラと王子 5.紡ぎ車の誘惑

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第一幕 リラと王子 5.紡ぎ車の誘惑

 オーロラは小塔の入口を探して城の中をさまよった。  もしこれが今日のような日でなかったら、オーロラは通りかかった誰かに呼び止められていたかもしれない。少なくとも、王子がどこにいるか、何をしているかを見ている者がどこかにいただろう。  しかし今日は祝宴の日で、城の者はみなそれぞれの仕事に忙殺されていた。オーロラが城の中央部、小塔の真下に位置する廊下をさまようのを見ている者は、誰もいなかった。  この廊下の壁は四枚の大きなタペストリーで覆われていた。鮮やかな糸で王国の春夏秋冬を刺繍したみごとなものである。よちよち歩きをしていたころのオーロラ王子はこのタペストリーが大好きだった。春のタペストリーは花冠の娘たちと黄金の小麦畑が、夏は緑の牧草地と羊の群れを追う犬と少年が、秋は赤く色づいたカエデの葉と森を歩く鹿が、冬は雪の白に覆われたこの城が描かれている。  オーロラはこれまで数え切れないほどこのタペストリーを見てきたが、裏側がどうなっているかを考えたことはなかった。しかしオーロラの見立てが正しければ、小塔の入口はこのあたりにあるはずだ。ぶあつく重いタペストリーは石の壁にぴったりくっついているかに見えたが、王子は春のタペストリーから慎重に調べていき、四枚目の冬で、つまりこの城そのものが描かれているタペストリーの下端に、ほんのすこし壁から浮いている箇所をみつけた。  ここがあやしい。オーロラがしゃがんでタペストリーを持ち上げようとしたとたん、不思議な力が働いた。タペストリーそれ自体が生き物のように上にめくりあがったのだ。その下にあらわれたのは石の壁と、その表面に細い線で刻まれた扉だった。それはタペストリーと同じように見事な細工で、ほんものの扉のようにみえた。ドアノブと鍵穴まで刻まれているのだ。  しかも鍵穴には鍵が刺さっていた。  オーロラはそっと手を伸ばし、鍵に触れた。ほんものの金属が指に冷たかった。鍵を回すとカチリと音が鳴った。ドアノブを引くと、石の扉はミシッという音を立てながらゆっくり開いた。  扉のむこうには上にのびる螺旋階段があった。  オーロラは上をみあげた。ずっと上に白い光がある。階段の途中の壁にはランプが黄色い炎をあげて燃えていたが、まるで凍りついているかのようにちらりとも揺れない。しかし王子が螺旋階段をのぼりはじめると、長い年月のあいだに降り積もったらしい埃が一歩ごとに足元を崩れおちた。塵がランプの光を反射してきらきらと輝く。  オーロラは螺旋階段を登って行った。一歩すすむたびに足元で光る塵の雲が生まれ、周囲をふわふわと漂った。階段はどこまでも続くように思え、オーロラはやがて息を切らしはじめた。乗馬や剣の稽古で鍛えているからこの程度で疲れるはずがない。それなのにだんだん頭がぼうっとしてくる。どこからか不思議な音が鳴り響いていた。頭がぼうっとするのは単調にブンブン繰り返すリズムのせいかもしれなかった。  そのリズムはオーロラの体に奇妙な影響をおよぼした。体の中心からむずむずと疼くような、期待のような、そわそわした甘い予感が広がりつつあった。いつのまにか疲労感は消え去っていた。  落ちつかない気分とともにいったい螺旋を何周登っただろう。白い光が頭上にみえ、オーロラはついに小塔のてっぺんにある小部屋にたどりついた。不思議な音はもっと大きくなって、オーロラは太陽の光がさしこむ小部屋の中央をみつめ、ついに音の原因をつきとめた。それはオーロラ王子が生まれて初めて見る道具だった。  もっとも、もし父王が十五年前に国中の紡ぎ車を焼き捨てなかったら、オーロラは音の正体を不思議に思うことなどなかっただろう。かつて紡ぎ車はどの家にも、工房にも、この城にもあった。王子がくぐりぬけてきたタペストリーも、城の中の工房で紡がれた糸を使って織られたのだ。台座の上に車輪があり、細い糸がぴんと張られ、糸巻の軸に続いている。  羽根をたたんだ黒い鳥が糸巻にとまっていた。オーロラは嬉しくなった。思った通りだ。あの鳥はここにいた。  そして黒い鳥の方もオーロラを待っていたようだった。黒い眸をきらめかせて、こっちに来いといいたげに小首をかしげたのだ。  王子は小部屋の中央へ歩いた。そのあいだも車輪はくるくる回り続けている。糸巻を抑えている鳥の爪のあいだを糸がくぐっていたが、絡んで止まることは絶対になかった。車輪の回転とともにブンブンという音が鳴り響いたが、それはオーロラの耳にひどく甘美に聞こえた。ここまで登ってくるあいだに高まっていた奇妙な期待がもっと強くなり、体の奥から甘やかな感覚がわきあがる。それはオーロラの背筋をくだり、下半身に達して、耐えがたいほどの衝動となった。  黒い鳥がオーロラをみて、一声啼いた。  オーロラはひるまなかった。さらに一歩ふみだし、手を伸ばした。白い手は黒い鳥にもう少しで届くところだった。しかしその瞬間、王子の手をはねのけるように鳥の翼が広がった。  とっさのことでバランスをくずした王子はあわてて糸巻をつかもうとした。そのときである。すり減って針のように鋭くなった錘がその白い指先に突き刺さった。  オーロラは痛みを感じなかった。体をつらぬいたのは待ち焦がれていた甘美な快感で、そのあまりの激しさに膝はふるえた。オーロラは石の床に崩れ落ちたが、指先から血のしずくをこぼしているというのに表情は穏やかで、まぶたはかたく閉じていた。唇はうっすらと微笑んでいる。  小塔の中を鴉が円を描きながら舞い上がり、カァカァと高らかに啼いた。長い眠りについたオーロラ王子を石の床に残して小塔の窓から外へ飛び出し、勝利の喜びを歌いながら西へ、カラボスのいる山地へ飛んでいった。
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