第一幕 リラと王子 7.護りの手段

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第一幕 リラと王子 7.護りの手段

 静かな城の中で、リラがみずからの失策に思いをはせたのはほんの一瞬にすぎなかった。過去のことは過去のことだ。今はやるべきことがある。  オーロラ王子は死の呪いを克服するため、百年の眠りについた。巻き添えで眠った王や王妃、城の者たちも同じように百年眠りつづけるのなら、そのあいだこの城を守らなければ、とリラは思った。為政者が眠りについてしまった国の民を放置するのは許されないことだ、とも思った。  何よりも、オーロラ王子がふたたび目覚める日をリラは待たなければならなかった。オーロラの菫色の眸はリラをいまだに虜にしていたのだ。オーロラが大人になる日をリラは待っていた。十五歳は通過点にすぎない。その通過点が百年先になったとしても、リラは待ち続けるだろう。百年という時間は魔法使いにとってなにほどのものでもない。  しかし人の世はうつろいやすい。導く王がいない国では民はまとまらず、人の手が入らない城は数年で朽ちてしまう。リラは腕に抱いたオーロラを王の前に横たえると、庭園に面した窓へ歩いた。魔法使いの体がふわりと宙に浮く。みえない階段を歩くようにリラは城を囲む庭園へ下りていった。青いマントが風にひるがえる。魔法使いは宙を歩きながら指先をのばし、空中に魔法文字を書いた。  白く光る文字は糸のように長くのび、規則正しく縦横に並んだと思うと、宙を漂いながら真っ白の布になり、さらに楕円に引き絞られて細長い繭のかたちになった。リラは右手で魔法文字を操りながら庭園に優雅に着地すると、今度は左手をさっとふった。  するとどうだ。緑の庭園にずらりと並んだ白い繭の中に、いまや城中の人々が横たえられていた。王や王妃だけでなく、召使や厩番、楽師に庭師まで、みんな繭の中で眠っている。魔法使いは眠る人々を魔法の繭に隔離したのだ。庭園の中央には石の台座があったが、そこには真珠色の艶をおびた特別な繭が置かれていた。リラは他の繭のあいだをぬってすたすたと歩いていくと、台座のそばにひざまずいた。  真珠の繭の中でオーロラ王子が眠っている。 「ここでしばしお休みください、王子よ」  リラは立ち上がると両手を広げ、ゆっくりと腕をまわした。魔法の文字が空中を漂い、眠る人々の繭を閉じていく。  これで外界がどうなろうと城の人々は安全に眠りつづけるだろう。複雑な魔法を成功させてリラはほっと息をついた。ひとつやふたつ繭を織るだけならそれほど魔力もいらないのだが、これほどの数となれば別だ。魔法使いはかなり消耗していた。  その隙を、鴉がついた。  カア、と鳴く声にリラは空をみあげた。  いったいいつのまに? 黒い翼が鳴きかわしながら城の上空を舞っている。リラは手をあげ、指先から稲妻を放った。稲妻は塔の周囲を舞う鴉を一度は散らしたが、撃ち落されはしなかった。それどころか、リラがみつめるうちにその数はどんどん増え、さらに竜巻のような渦を描きながらリラの方へ向かってくる。  リラは両手をあげ、竜巻を消す呪文を唱えたが、鴉の声はもっと大きかった。黒い翼の渦のむこうに黒い眸がみえた。カラボスだ。 (リラ、俺はおまえをけっしてゆるさない。俺を裏切ったことを) 「くだらない!」  リラは呪文を中断して叫んだが、鴉のくちばしが庭園の繭に向かうのを見て、即座に戦術を変えた。下に向けた手のひらから発せられた魔力が地面を照らしたと思うと、庭園を囲むように茨が地面から芽を出し、またたく間に伸び広がる。棘の生えた蔓がからまりながら庭園をかこみ、繭を守るようにつながって、覆い隠そうとする。  しかし鴉の群れはリラの魔法を怖れなかった。棘にひっかかって血を流そうが、羽根をむしられようが、臆せずに飛びこんでくるのだ。リラは舌打ちしながらすり抜けてくる鴉を稲妻で容赦なく叩きのめし、さらに庭園を覆い隠した茨のむこう側に毒の霧を放った。  濃い紫色の霧が城の上空で爆発し、鴉の群れを包む。毒の霧は攻撃魔法の中でも禁じ手にひとしかった。風向きによっては無辜の者まで犠牲になる可能性があったからだ。だが、いまのように茨の上を飛び交う鴉を殺すだけなら、最適な方法ではあった。  黒い鳥の群れはたちまち毒にあてられ、ぽとりぽとりと茨の蔓のうえに落ちた。死んだ鴉の重みで茨はたわみ、その小さな体には茨の棘が突き刺さり、血の雫がぽとりぽとりと垂れたが、リラは茨の下でまたほっと息をついた。鴉の翼が羽ばたく音も、リラを責めたてる不吉な声も聞こえなくなったからだ。  ところがその直後、白い繭のうえにぽとりぽとりと垂れた鴉の血から、濃い紫色の染みが広がりはじめた。リラが放った魔法の毒が鴉の血を通じて白い繭に染みこみ、紫はどす黒い色へと変わっていく。  しまった――リラはおおあわてで空中に魔法文字を描いた。  ところが、適切に組みあわせられれば浄化の呪文となるはずの文字がなぜかつながらない。茨が魔法文字の邪魔をしていることにリラはようやく気づいた。宙にただよう魔法文字は茨の棘にふれたとたん、他の魔法文字と連結する力を失ってしまうのだ。それは茨がもつ防御の力ゆえだった。  今回もおのれの魔法が裏目に出たことにリラは焦り、今度は指をぱちんと鳴らして鴉の死骸を茨から消し去ろうとしたが、流れた血の最後のひとしずくまで消滅させることはできなかった。そうするあいだにも毒が含まれた血は茨をつたい、繭を染めるだけでなく、繭が置かれた地面にも染みこんでいった。鴉をあっという間に殺した毒が繭を侵すと、そのなかに横たわる人々が毒に侵されるのもあっという間のことだった。繭の中で眠っていた人々の沈黙はいまや本当の死の沈黙に変わり、リラを包みこんでいる。  久しく感じたことのなかった絶望が魔法使いを襲い、彼はうつむいて、獣のような唸り声をあげた。何ひとつこたえなかった。憎き鴉ですらリラに答えようとしない。  リラは頭をあげ、いまいましげに周囲をみまわすと、両手を大きく広げた。 「死を包む茨よ、枯れよ!」  ザッーーー!  風があたりを揺らし、庭園を覆っていた茨の蔓が消え去った。しかし庭園の中央の、真珠色の繭をのせた台座を覆う茨だけは消えてなくならなかった。  オーロラ王子は毒に侵されることがなかったのだ。  リラは今度こそ深い安堵の吐息をついた。魔法使いはあまたの間違いを犯したかもしれないが、彼の愛するオーロラはまだ生きていた。何としても眠る王子を護りぬかねばならない。  さて、城で起きた出来事をフロレスタン国の城外の民はまだ知らなかった。そしてリラもこんなことは知らせるべきでないと考えたのである。そこで彼は城の塔にこもると、城全体を覆う魔法のめくらましをこしらえた。城を訪ねる人々にはリラが用意した魔法の幻影が相手をする。  しばらくはこれでうまくいった。城に用のある民はリラがこしらえた幻影にごまかされてくれた。安心したリラは西の塔にこもり、この騒ぎのあいだ放置していた研究にすこしのあいだ没頭することにした。疲れを知らぬような魔法使いにも息抜きの時間は必要だったのだ。  だがそれも、好奇心にかられた子供たちが幻影をかいくぐって城内に忍びこむまでのことだった。  子供たちは誰もいない荒れ果てた城をみて、驚いて村に逃げ帰ろうとした。間の悪いことにちょうど時をおなじくして、隊商のふりをした盗賊団がフロレスタン国に侵入していた。彼らは飛び出してきた子供たちの話を盗み聞き、これ幸いと城に忍びこんだのである。そして誰もいない城を乗っ取ると、城のあらゆる扉をあけて財宝を探しはじめた。  もちろんリラはまもなくそれに気づいた。西の塔の扉を蹴破られたからである。彼は即座に魔法で盗賊団を撃退したが、不意をつかれたおかげで全員を殺すことはできなかった。  逃げのびた盗賊は国境を越えると、魔法によって守られた、主のいない城について人々に触れ回った。きっとあそこにはあまたの財宝があるにちがいないという憶測もふくめて。  その噂は他国の王や所領争いをしている豪族の耳に届き、やがて国境は周辺の各国が派遣した兵士たちに蹂躙されるようになった。民は城に助けを求めたが、彼らに答えるのが魔法の幻影にすぎないとわかると、パニックに陥って次々に荷物をまとめはじめた。  ひとたび国を捨てる者があらわれると、多くの民があとに続いた。逆に外からは兵士や盗賊団がやってきた。まだ青い麦の穂は兵士に踏みつけられ、森の木は好き勝手に刈られて燃やされ、家畜は略奪され、家は焼かれた。  もちろん、民がほとんどいなくなるまでのあいだ、リラがまったく手を打たなかったわけではない。しかし今まで強固に存在していた秩序が一日にして消え去った国では予想のつかないことが起きるものだし、魔法使いは国を治めるということを甘くみていた。しょせん人間の王にできることだとたかをくくっていたのだ。  それにしばらくしてわかったことだが、一時的に外国の兵士や盗賊を撃退するだけならともかく、永遠におわることのない侵略を防ぎつづけるのはリラの魔力をもってしても至難の業だった。何しろはてしない消耗戦が続くのだ。防御の魔法、たとえば茨で城全体を覆いかくそうとしたこともあったが、これはいつも鴉に妨害された。  カラボスの使い魔である鴉は禁じ手の毒の霧で仲間を殺したリラを許さなかった。彼らは防御を邪魔するだけではなかった。リラが他者に対して敵意や害意をおぼえると、そのとたん城の上空にあらわれては、リラの敵――城を攻めようとする者たちに味方するのだ。  いまいましいことにかつて師が告げたとおりだった。リラには世界のすべてを自分の思うとおりに変えられるような力はなかった。  しかしそれでも、問題を解決する鍵はやはり、リラの魔法からあらわれたのである。
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