第一幕 リラと王子 9.眠れる森の主人

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第一幕 リラと王子 9.眠れる森の主人

 暗い森のあいだを一本の道が通っている。森の奥からは獰猛な野獣の吠え声が聞こえ、節くれだった木々のあいだにはするどい棘をもつ茨が生い茂る。  午後の空は晴れているというのに、左右に迫る木々の影で道は暗い。踏みはずせば茨に手足をとらえられ、野獣の餌食になるだろう。それでもこの道を進む者がいるのは、この先に財宝を隠した城があるといわれているからだ。  いち早く城にたどりつき、財宝を持ち帰れ。  馬で道を駆けていた兵士の小隊は師団を指揮する将軍にそう命じられていた。ところが先頭をいくひづめの音が急にやんだ。 「どうした! 進め!」  隊長は叫んだが、どこからか響いてくる楽の音に手綱を引く。みると先鋒の兵士の前に巨大な鉄の門があらわれている。  全員が寝ぼけていたのでなければ人智を越えた力が働いたかのようだった。門は優美な装飾で飾られていて、茨を思わせる高い柵が門の横につづいている。 「いったいなんだ、これは……」  隊長は馬の腹を蹴った。門の正面へ進むと、閉ざされた鉄の扉が音もなくひらいた。馬の背にいる兵士たちの肩がいっせいに緊張する。  しかしそこにあらわれたのは、黒と白の貴族のお仕着せをぴしりと着こなした召使の姿だった。両手は空で、連隊長をみあげてから、深く礼をした。 「ようこそ、眠れる森へ。主人がお待ちしております。どうぞこちらへ」  全員が毒気を抜かれ、興奮気味だった隊長の馬まで大人しくなった。門のむこうにみえるのは壮麗な城館だ。俺たちは財宝の眠る廃墟をめざしていたのではなかったか?  隊長の頭は混乱した。しかしここには荒廃などどこにもない。館の正面につづく小道には輝く真っ白の砂が敷きつめられ、左右の花壇では色とりどりの花々が咲き乱れている。 「さあ、どうぞ。ご案内いたします。騎馬のお世話はこちらでいたしましょう」  当然のことのようにいわれて隊長は一瞬ためらったが、ついに馬を先に進めた。兵士たちがあとに続く。門の内側には馬丁らしきの少年たちが何人もいて、騎士か貴族に対するように、大人しく兵士たちが馬を渡すのを待っていた。隊長はまたもためらったが、決意したように馬を降りた。彼は部隊で唯一、下級貴族の出身だった。こういった場面で貴族的なふるまいをみせられなければ、部下にみくびられると思ったのである。  馬の蹄やブーツが白い砂を踏みしめるとかすかに鈴のようにきらめく音が鳴った。それを聞いたとたん、荒んだ兵士たちの心がなぜかたちまち安らいだ。疲れていたはずの足が軽くなる。召使は腰をかがめ、館の扉を手で示した。一行は花の香りにつつまれた小道をあるき、開いた扉の前に立った。  扉の向こうには、さらに驚くべきものがみえた。  はっとするほど美しい菫色の眸が兵士たちを迎えたのである。完璧に整った白い顔のなかで、桜色の唇がふわりと微笑む。花びらがほころぶような笑顔に兵士たちはいっせいに見惚れた。 「遠くからよくいらっしゃいました。ここは〈眠れる森〉、快楽と安らぎの館です。僕はロラ、この館の主人です。どうぞ中へお入りください」  その声は少年と青年のあわいにある若い男のものだった。のびやかな肢体を包む衣服は飾り気がなかったが、みるからに上質な毛織物である。扉のむこうは広いホールで、壁や床は磨かれた木と大理石で飾られていた。色ガラスの窓から落ちるやわらかな光をあびて、兵士のひとりは、自分がもはや地上にいないのではないだろうかと思った。茨に囲まれた道を歩いているあいだに、自分は死んでしまったのではないだろうか? 「大丈夫ですよ」  美しい若者は兵士の考えを読んだかのようにいった。 「あなたはここにひとときの安らぎを求めにきた。それもただの安らぎではありません。あなたが望む悦びはすべてこの館で手に入ります」  若者は両手を誘うように振った。いつのまにか広いホールのあちこちに美しい男女が立ち、微笑みをうかべている。  兵士たちはとまどって顔をみあわせた。こんなに都合のいいことが現実に起きるだろうか? とそのとき、どこからか料理のいい匂いが風に乗って流れてきた。ひとりの兵士の腹が鳴ったとたん、場違いな響きに他の兵士から笑いが起きた。  若者は眉もあげず、同情するようにうなずいただけだった。 「遠くから来て疲れているでしょう。まずは湯浴みと着替え、それに食事をさしあげましょう。館の者がお世話いたします。お好みの者がいれば遠慮なくそちらへ。さあ」  これが夢でもかまわない。  みないっせいに歓声をあげた。隊長の制止など誰ひとり耳に入らない。きょろきょろとあたりをみまわして好みの美女を探す者もいれば、酒はどこだと怒鳴る者もいる。  美男美女に手をとられ、うきうきと館の奥へ進む兵士たちにあっけにとられていた連隊長にも館の者が近寄って、親しそうに腕を組んだ。連隊長はあたりをみまわし、菫色の眸をした館の主人がいつのまにかいなくなっているのに気がついた。  日が沈むころ、兵士たちは館の者に誘われるまま、湯で暖まって満腹になると、閉ざされた扉の奥で思い思いの遊びを楽しんだ。やがて夜になり、館は降るような星空の天蓋に覆われた。広い庭園を歩けば、バルコニーやあずまやから淫靡な悦楽の声が響くのがきこえただろう。中にはよりそう美女の膝をかりてぐっすり眠るだけの兵士もいたし、仔犬と仔猫を抱いて安らぐ者もいた。それぞれが望む方法で、素晴らしい夜を過ごしたのだ。  やがて遅い月がのぼり、美しい夜明けが訪れた。  目覚めた兵士たちは召使にかしずかれ、一夜のあいだに洗濯されつくろわれた軍服に着替えた。館の広間には豪華な朝食が用意されていた。まだ夢をみているような気分のまま食事を終えると、隊長は召使のさしだす封書を受け取った。 「館の主人から、将軍様あての書状にございます」  隊長は無言でうなずいた。食事を終えた兵士たちは隊列を作って館の外に出た。門までの小道の左右に、昨夜彼らをもてなしてくれた男女が笑顔で立っている。彼らの馬も待っていた。毛並みは磨かれたような艶をもち、馬具もよく手入れされている。召使が深々と礼をした。 「どうぞまたお越しくださいませ」  あの美しい主人には会えないのか。隊長は残念に思ったが、心は不思議と急いていた。早く師団へ戻り、将軍にこの手紙を渡さなければならない。  訪れた時と同じように、館は茨の生い茂る深い森に囲まれていた。馬は道を早足で駆けた。来たときよりもずっと早く小隊は師団の駐屯地へ帰りつき、隊長は将軍の前に進み出た。 「財宝はみつかったのか」 「たしかにあの道の先には宝がありました」と隊長はいった。 「しかしそれは閣下がおっしゃられたようなものではありませんでした。こちらを」  将軍は渡された書状を開いた。なめらかな手触りの紙の内側は夜の色をしていた。そして、星のように白く輝く文字がふわりと宙に浮かびあがった。    * 「うまくいったようだな。これで主な連中に暗示がかかった。あとは噂が広がるのを待つだけだ」  リラは鏡の前に立っていた。塔の中にある魔法の鏡で、銀色の表面にはかつてフロレスタン国だった土地に駐屯する、大国の将軍が映っている。  かつてフロレスタン国の城だった建物はさまがわりしていた。四つあった塔はひとつ残っているだけで、かつてオーロラ王子が紡ぎ車の針を刺した小塔もない。リラの魔法によって、優美な城館へ作り変えられたのだ。  城館には歓楽のためのさまざまな部屋があった。賭け事を楽しめる部屋もあれば美食を楽しめる部屋も、舞踏部屋もあり、ひとつひとつ異なる意匠で飾られたたくさんの寝室があった。それは魔法の幻影ではなかった。リラは荒廃した城を魔法と魔道具を駆使して再生したのである。  兵士たちを迎えた館の男女も、厨房で作られた食物も、その他働く者たちも、みな幻ではなかった。リラはよく考えたすえ、カラボスの手下に対抗するには、一時の魔法によるごまかしではなく本物が必要だと判断した。そこで、魅惑的な男女や美食を提供するコックや給仕、優秀な召使を世界中から集めた。  館は茨の森の中という辺鄙な場所にあったため、募集は最初のうちこそ魔法の暗示を多少使う必要があったが、館の準備が整うにつれ、報酬に惹かれて優秀な人材が集まるようになった(ちなみに報酬は、フロレスタン国の城に蓄えられた財宝から支払われていた)。  こうして歓楽の館〈眠れる森〉が誕生したのである。  次にリラがやったことは、財宝狙いで城を襲う兵士や盗賊に対して、先の兵士たちにやったような歓待を仕掛けることだった。彼らに本物の快楽を与えると同時に、この地にあるのは財宝を隠した城ではなく娼館だという暗示をかけるのである。その暗示には、あとになればなるほど無償の歓待をうしろめたく感じる効果もついていた。  大国から派遣された軍隊に対しては、魔法文字の書状を通じて権力者たちに暗示を広げた。訪れる者に歓待の意思しかみせないので、敵意に反応するカラボスの鴉は襲って来ない。  そうするうちに本物の客が訪れるようになった。最初は暗示をかけられた兵士や盗賊たち。彼らは無償の歓待を忘れられず、自分の自由になるだけの金を握りしめてやってきた。その次はこの館がどんなに素晴らしいか噂を聞いた者たちがやってきた。  リラはもちろんすべての客から適切な代金を徴収した。いや、実際に人々の前に出たのはリラではなく、オートマタのロラだった。リラは塔の中からロラに指示したが、けっして姿をみせなかった。館で働く者たちを雇うときも彼らを面接したのはロラだった。菫色の眸をしたオートマタはリラの要求に完璧にこたえた上、快楽をもとめて館に集まる人々を惹きつけた。  そのうち〈眠れる森〉に行けばただの肉の悦びだけでなく、ほんとうの安らぎも手に入るという噂も、ひそかに出回るようになった。  きっかけは不眠の呪いにかけられて気が狂いかけた男が館に迷いこんだことだった。不眠の呪いはそのあたりの魔女にもかけられるくせに、解くのが難しい厄介な呪いである。ところがこの館でその男は眠れるようになったというのだ。どうも菫色の眸をもつ主人は不思議な力を持っているらしい。  そのころになると人々は〈眠れる森〉がもともとフロレスタン国の城であったことをすっかり忘れてしまっていた。魔法使いリラは自分の計画を成し遂げたのである。オーロラ王子の眠る繭は館の庭園のもっとも奥、茨に囲まれたあずまやの中で、静かに時を待っていた。
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