第一幕 リラと王子 1.十二枚の金の皿

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第一幕 リラと王子 1.十二枚の金の皿

 今はもう誰も、その国のことを知らない。ずっとむかし、いまの語り部の口からは語られることもなくなったほどむかしのことだ。宝石のような湖が散らばる、みどり輝く森にかこまれた豊かな土地に、フロレスタン国という小さな国があった。  外の世界で珍重されるような産物はほとんどなかったが、土地は肥え、豚や山羊がはなされた森には林檎とさくらんぼが実り、狩人が獣を狩って毛皮をとった。王国をつらぬくように流れる川ではときどき砂金が採れ、湖の浅瀬では銀色の魚がぴちぴち跳ねて、深みには大きな亀が棲んでいた。  フロレスタン国は、王国の外の世界にはあまり知られていなかった。たまに訪れるかぎられた商人くらいだったろう。だが、奇跡のように美しい国だった。王国を囲む森では春になると林檎と桜の花が咲き、勤勉な人々が耕す畑では穀物が金色に実った。水路には透きとおった水が流れ、ゆっくりと風車がまわるなか、農地のあいだの牧草地では牛と羊が草をはんでいた。犬がそのあいだを駆けまわり、猫は納屋のねずみを追い、寒い夜には炉のそばでゆうゆうとぬくもっていた。  周囲の大国で繰り広げられている権力争いや、日照りや洪水のような災厄はフロレスタン国を避けて通るかのようだった。フロレスタン国の人々は彼らの王と王妃を誇りに思っていた。王も王妃もまだ若いのに賢明で、王国が何に支えられているのかをよく承知していた。  大地の恵みが豊かだからといって、王は人々から多額の税を取り立てることも、城を華美に飾ることもなかった。川で採れた砂金や余剰の穀物は、もしものときのために城の倉庫に蓄えられた。疫病が流行ったり、冬の吹雪に閉ざされて一時的に人々が困ることがあると、王は倉庫の中身を惜しげもなく人々に分配した。  こんなふうに、なにひとつ欠けていないように思えるフロレスタン国だったが、実はただひとつ、満たされていないことがあった。  王と王妃には子供がいなかったのである。  王も王妃も、お互いを傷つけまいとして、はっきりと口に出すことはなかったが、結婚して三年経っても子ができないことは大変な悩みだった。特に王妃の悩みは深かった。ふだんは明るくふるまっていたが、ふとした折り、周囲の人々の子を期待するつぶやきを聞くたび、水底に石が落ちるように悩みが重く積もるのだった。王はそんな王妃を気遣ったが、子ができないことに焦っていたのは同じだった。  そんなある日のことである。  王国はいつものように美しい夕暮れを迎えていた。王妃は晩餐をまつあいだ、城のバルコニーから外をみていた。ふと、空の中に黒い小さな点が、西の方から輪を描くようにこちらに向かってくるのがみえた。点はだんだん大きくなり、やがて黒い鳥の姿になって、斜めに翼をかたむけて、王妃のいるバルコニーに向かってくる。なんだかおかしな飛び方をしている、と思ったときだった。黒い鳥はかくんと墜ちるように、王妃の足元に転がり落ちた。 「ああ、なんてこと」  王妃はいそいで鳥のそばにかがみこんだ。それは真っ黒の大鴉で、どこかで鷲か獣に襲われたらしく、固まった血が翼の一部にこびりついていた。傷は一応ふさがっていたが、くたびれはてたようにぐったりしている。王妃は侍女を呼び、清潔な布と籠を用意させた。 「王妃様、鴉などほうっておきましょう。真っ黒の鳥は恐ろしい」  侍女はそういったが、王妃は聞き入れなかった。 「そんなことをいうものではありません。昔から鴉は魔法使いの鳥だといわれています。とても賢いのよ。それにこの子はとても長い旅をしてきたようです。すこし休んだらまた飛んでいくでしょう。餌になりそうなものを厨房からもらってきて」  王妃がそういったとたん、鴉はちいさく首をもたげ、黒い石のように輝く眸で王妃をみつめた。 「ほら、この子にはわかっているわ。今日はこの籠に入って、寝室で休みなさい。風も吹かないし、暖かいから」  王妃は籠に入れた鴉を自分たちの寝室へ運んだ。窓のない部屋で、天蓋のある大きなベッドが置かれている。ベッドの横の卓に籠をおいて、王妃は晩餐へ出かけて行った。鴉は侍女が恐れたように大きな鳴き声をあげることもなかった。  その夜、王妃はいつものように王と共に寝室へ入った。 「おや、その籠は?」 「話すのを忘れていました。疲れた鴉が舞いこんできたのです。すこし休ませてから、放してあげるつもり」  王はうなずき、寝台にあがった。鴉はきっと眠っていたのだろう。王妃と愛の営みをしているあいだ、羽根が擦れる音も聞こえなかった。  翌朝ふたりが目をさますと、鴉は籠の中で止まり木につかまり、賢い黒い眸をきらめかせていた。ゆっくり休んだせいか、昨日と見違えるように堂々としている。王と王妃が前にたつと、羽根を半分広げてみせた。 「元気になったみたい」 「そうだな。おまえの優しさのおかげだ。バルコニーまで私がこの鳥を連れて行こう」  王が籠をもち、王妃があとについて、ふたりはバルコニーへ出た。夜明けを迎えた空には雲一つなく、かすかに風が吹いている。  王が籠の戸をあけると、鴉は落ちついた足取りでバルコニーの手すりへ出た。そして羽根を大きく広げてぱさりと宙に舞い上がったが、なんと同時に、そのくちばしから人間の言葉を発したのである。 「フロレスタン国王と王妃よ、おまえたちは一年以内に子を授かるだろう」  バルコニーのふたりはあまりの驚きに口をぽかんとあけて、黒い翼が飛び去るのをみつめた。黒い翼が小さな点になるころ、やっと我に返って、王妃は感謝の涙をうかべ、王は王妃の腰をぎゅっと抱き寄せた。  ふたりは鴉の予言を信じたのだ。  予言は正しかった。  まもなく王妃は懐妊し、周囲の人々に慎重に見守られながら十月十日を過ごした。国じゅうの人々は赤子の誕生を心待ちにして、城の者たちは下働きから臣下まで、いよいよ陣痛がはじまったときは息をひそめたほどだった。こうして、美しい初夏の夜明けに元気な赤子が生まれた。男の子だった。  赤ん坊は漆黒の夜と薄紅の朝の境界で生まれたので、暁の女神の名をとってオーロラと名付けられた。王国に欠けていた最後のピースが埋められて、王と王妃はもちろん、フロレスタン国の人々の喜びようはたいへんなものだった。  しかしお祭り気分で浮かれる人々の様子が城に伝えられるなか、王はまた小さな悩みを抱えていたのである。 「リラ、相談があるのだが」 「なんでしょうか」  王子が生まれてひと月が経った時、王に呼びだされたのは、宮廷でいちばん信頼されている魔法使い、リラだった。  フロレスタン国の宮廷では、魔法使いは昔から敬われていた。他の国では、魔法使いというものは、人智のおよばぬ妖しい技をつかうものとしてむやみに恐れられたり蔑まれたりしていたが、歴代のフロレスタン国王は魔法使いたちに敬意をもって接してきた。なかでもリラは宮廷に近く、王が少年だったころからの友人で、相談役でもあった。城の官吏や大臣、下働きの者まで、みんなリラを知っていたし、リラを敬っていた。  それも無理はない。魔法使いはただの人よりずっと長命だが、年をとっても若い頃のまま外見が変わらない。リラがどのくらいの年月を生きているのか誰も知らなかったが、みたところ彼は青年期をすぎた男盛りで、騎士のように鍛えられた長身に、はっとするほど端麗な面立ちをした美男子だった。  青い眸によく映る、純白の長い髪だけはリラの年齢を語るもののようにも思えたが、生まれつきだったのかもしれない。物陰でこっそりとしか口に出されないことだったが、城の女たちはもちろん、男たちのなかにもリラに心惹かれるものがいたくらいである。 「オーロラの誕生を祝う宴に、魔法使いを全員招きたいと思っていたのだ。リラ、あなたはもちろんだが、この世界の十三人の魔法使い、みなに王子を祝福してもらいたかった。だが……」 「何か問題でもありましたか」  王は顔をしかめていった。 「祝宴のための皿が十二枚しかないのだ。あなたは知っているだろう? 慶事に用いられる国宝の皿だ」 「もちろん存じています」  リラはおごそかな表情でうなずいた。 「黄金でできた八角形の大皿ですね。八方に宝玉が埋めこまれている、フロレスタン国にしかない宝です」  王はしぶい表情になった。 「宴ではあなたがた魔法使いを招いて王子に祝福をもらうのだ。当然あの皿を使わなくてはならない。でも、皿は十二枚なのに、魔法使いはあなたをいれて十三人いる。もう一枚皿を作ることはできないかと職人に相談してみたが……」 「それは難しいでしょうね」  リラは王のあとをひきとるようにいった。 「皿を飾る八種類の宝玉はたいへん珍しいものです。深い海の底や険しい山の頂から持ち帰られた宝玉もある。二度と手に入らないものばかり」 「そうなのだ。だから困っている。仮にもう一枚作ったとしても、他の皿とならべると見劣りするだろう。いったいどうしたらいいと思う?」  リラは王の前に座っていたが、腕を組んで考えをめぐらせた。といっても、本当はそのふりをしただけで、心はもう決まっていたのだが。 「王よ、もう一枚の皿について思い悩む必要はありません。十二人だけ招待すればいい」 「どういうことだ? ひとりをのけ者にしようというのか? 私が今回、魔法使い全員を招待するのには理由があるのだ。実は……」  王は玉座に座ったまま背筋を伸ばすと、小声で話を続けた。 「王妃が懐妊することを予言した魔法使いがいる。鴉が王妃と私の前で告げたのだ。あれは魔法使いの使い魔だったにちがいない。私は祝宴にぜひ、その魔法使いに来てもらいたいのだ。しかし鴉は誰の使いなのかを告げなかった」  リラの青い眸が一瞬すっと細められ、鋭い光をおびた。 「当然でしょう。魔法使いは謙虚であることが求められる。みずから名を告げたりしないものです。祝宴についてですが……」  口元に意味深な微笑みがうかんだ。王は魅せられたようにリラの顔をみつめた。 「私は西の山地に住むカラボスをよく知っています。彼は他の魔法使いとちがい、人間を劣った存在として嫌っている上、そのような祝いの席を好みません。むしろ、人間ごときに招かれるのを無礼だと考えるような、気難しく困った性質の持ち主です」  リラの言葉はカラボスが予言の鴉を送ったはずはないと暗に語っていた。王はリラの青い眸をみつめるうち、その言葉を信じた。 「それならカラボス以外の十二人を招待すればいいだろうか。そうすれば祝宴の皿の問題は解決だ」 「そうですね。それがいいと思います」  リラは王を安心させるような穏やかな笑みをうかべ、王は小さな悩みが消えてほっとした面持ちになった。  こうしてカラボス以外の十二人の魔法使いに王の名で招待状が送られた。リラの使い魔である白い鳩が世界をめぐり、招待状を届けたのである。  招待された魔法使いたちは王子への贈り物となる魔法を用意して、祝宴の日がくるのを楽しみに待った。
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