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雪に足を取られて転んだ日。立ち上がらせてくれた腕。凍死されたら堪らん、と毎日送り迎えしてくれた隣人。そんな思い出が胸を刺す。込み上げる何かは飲み下した。そうでもしないと、生きていけそうもなかった。
「……そうか」
そう答えると、彼はマフラーに鼻先が埋まる程俯き目を閉じた。彼が涙を堪える時の仕草だ。彼は決して私にみっともない姿を見せない。そんなことまで分かる程、一緒に居たと言うのに。胸が痛んだが、理性で圧し殺した。一体いつから、私の心はこんなにも凍えてしまったのか。
「ハンカチ持った」「おう」
気まずくなって何でもいいから、と言葉を放つ。
「ティッシュは」「持った」
矢継ぎ早に、考える暇も与えず。まるで溺れる魚が水面へ出るように。
「財布にお金は……」「お前はお袋か」
そんな茶番に嫌気が差したのか、彼は私の言葉を遮る。
「……」「……」
沈黙の時間が長く続く。そうしている内に発車のベルが鳴り響いた。東京では聞くこともあるまい、古臭い音だった。
「はる、」
彼が私の名前を呼ぶ。続けて何かを言いかけたが、無情にも扉は二人の間を隔てた。彼の瞳を見つめながらも、私は小さく手を振る。
久々に名前を呼ばれた。普段はお前としか呼ばないくせに、何を今更。
私は彼が目まぐるしく表情を変えるのを見たことがない。深い雪国では表情すらも凍ってしまうのだろう、そう思っていた。
しかし電車の窓越しに見た彼の姿は、私に驚きをもたらした。
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