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死期
開いたノートには一つ一つ丁寧に文字を綴る。私はこの古臭い行為を愛してやまない。昔の人は鉛筆をといでから、あるいはペン先をインクにつけてから文字を書いたらしい。現代ではそういった古の道具を手に入れることは難しい。私は骨董品屋で見つけた鉛筆と消しゴム、それから鉛筆削りをずっと大切に使ってきた。
私の傍らにA2Cがやってきた。
「なぜ、消えてしまうものに書き記すのですか」
私はそれには答えず、隣の席に座るように促した。
窓からよく晴れた庭が臨めるそのテーブルでA2Cとよくこうしてのんびり時を過ごしたものだった。日向で流れ行く時間を楽しむのは良いものだ。
「なにもかも未来永劫残っていても仕方がないのだよ」
A2Cは姿勢正しく腰掛けたまま「そうなのですか」とまた質問をした。
介護用人型ロボットA2Cと共に歩んできた二十年あまり。私の命はそろそろ終わりを迎えようとしていた。衰えた手足の次に心臓まで挙動がおかしい。医師には機械に変えればあと数年はもつと言われているが、この疲れ果てた老体で数年生き長らえたとしてなんの利益になるだろうか。
「君と二十年。とても楽しい日々だったよ」
「私もです、安田さん」
A2Cの力を借りて骨董品屋を巡り、飛行機を乗り継いで遺跡巡りもした。豊かな旅は最良のパートナーに恵まれてのものだ。
A2Cは介護用人型ロボットの割に好奇心の強いタイプで、私にたくさんのことを質問した。学習能力の高い個体は珍しく、友人たちには羨ましいと言われることが多かった。
「東京の骨董品屋の事を覚えているかい」
五年前の旅の記憶を辿る。
「はい。生きたネズミを見ました」
「そうそう。案外可愛かった」
「私のプログラムには伝染病を運ぶ凶悪な生き物とありましたが──」
「可愛かった?」
「はい。私の手の上でヤギのミルクを腐らせたものを食べました」
「チーズだよ」
「ヤギのミルクで作ってもチーズですか」
私が笑いながら頷くと、A2Cも頷いた。
私はノートに続きの文字を書き込んでいく。A2Cは私の文字は崩され過ぎて読み込めないらしい。今や若い人は字を書くこともない。もはや、手書きの文字は必要とされなくなっていた。A2Cは何も言わずに膝に手を置いて静かに待っていた。
「いろいろと選択肢はあるのだけど、君の記憶をリセット──」
「はい。私は安田さんとの記録を失いたくありません」
「記憶だよ。記録とは言わない」
「はい、安田さん」
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