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黒猫
「絶対に……秘密にしてくれる?」
すがるような目で見上げると、彼女はふわりと微笑んだ。僕の胸の中を満たしていた怯えや恐怖が、溶けるように消えていく。
「はい。私と猫さんの、秘密ね」
なんの確証もない口約束。
こんな嘘のような、魔法のような、非現実的な現象を目の前にして、何故彼女は笑っていられるんだろう。
猫が、黒猫が、喋ってるのに。
長かった受験という中学生活最後の、人生をかけた一大イベントを終え、めでたく高校に入学。実際そこまで人生をかけていた訳ではないけど、そこそこ人気の高校だった。入学式も終え、新たな生活に期待と不安を抱えての帰宅途中。
僕、坂木 響は、後ろから来た車に轢かれて死んだ。
しかしそのまま三途の川への旅立ちとは行かず、またこの世で目を覚ます。もう何度目だろうと考えるのも嫌になる。真っ黒で小さな黒猫の姿で生き返るのは、もう嫌だと思っていたのに。
この日は違っていた。
目を開いたら、目の前には天使がいた。
ミルクチョコレート色の瞳に涙を浮かべて、柔らかな笑顔で僕を見つめる女の子。優しい仕草で頭を撫でてくれる。
「気が付いてよかった……怪我はないですか?」
その手のひらの暖かさと優しさに包まれ、ふわふわの綿菓子みたいな笑顔と引き込まれそうな瞳の色に、僕は見惚れていた。
だから思わず、返事をしてしまった。
「うん、怪我はないから……」
彼女の瞳が少しだけ大きく見開かれ、それからまたふわふわと笑う。
「それならよかったです」
そして普通に会話を続ける彼女は、たぶん普通じゃない。天使がいるならここは天国かと思ったけどそんな事はなく、僕が住む近所の住宅地で、彼女は僕と同じ高校の制服を着た女の子だ。僕は今黒猫だけど。
彼女の手が、黒猫の体をそっとさすっている。手足やお腹を撫でられ、くすぐったくも気持ちいい……ってそうじゃない!
慌てて彼女の腕から転がり降りると、地面に立った。四本脚で。
「お、驚かないの? 猫が喋ってるのに、怖くないの?」
無意識に体を低くしている。右前足を前に、後ろ足には力を込めて、しっぽを立てて、いつでも逃げられるように、もしくは飛び掛かれるように。これはたぶん猫の本能。僕は、人間の僕の本能は……。
逃げるかどうかを迷う。このまま逃げたら、喋る猫の噂が広がるかもしれない。小学生が肝試し代わりに喋る黒猫探しを始めたりするかもしれない。
そんな僕の迷走し始めた思考を、彼女は笑顔で打ち消した。
「少しだけ驚いたけど……怖くはないですよ」
「……誰かに、話したりする?」
足が勝手に後退りをする。このままここにいてはダメだと、頭の中で警鐘が鳴る。でも、彼女ともっと一緒に居たいとも思う。こんな体質の僕が誰かと一緒に居たいだなんて、無茶な我が儘なのに。
「話した方がいいですか?」
彼女の声は優しい。笑顔が眩しい。
僕みたいなやつは、いない方がいい。
誰にも知られずにひっそりといなくなればいい。
でも、誰かにこの秘密を知ってほしかった。
ひとりで抱えるのはきっと、つらかった。
彼女の笑顔があまりにも優しいから。
陽だまりみたいな暖かさがあったから。
きっと僕は、甘えてしまったんだろう。
「絶対に……秘密にしてくれる?」
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