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冷え切ったビルツ邸の暗い廊下を、アンナは全速力で駆ける。
三度目の夜だ。狩人の男か、眠りの君か。どちらに先に見つかるかは日によって違ったが、幸いなことに今日は眠りの君だった。いいことだわ、とアンナは息を切らしながら無理矢理に笑ってみる。万全の体力でのぞめるってことだもの。
追いかけてくる足音が、少しだけ変わる。アンナは右手へ転がるようにして避けた。地面に短剣が突き刺さる。
首をひねった先では、悠々と近づいてくる青年の姿があった。まとう空気に余裕はあるが、整った顔に感情はない。
灰をまぶした炎の目と夜明け色の黒髪。冬の月明かりに照らされた人形めいた姿にアンナは唇の裏を噛み、階段に足をかける。
息つく間もなく駆け上って、一つ目の踊り場を後にする。青年はちょうど、階段を登り始めたところだ。これなら、というアンナの期待はしかし、すぐに外れることになる。
青年はたしかに階段を登り始めたが、その勢いのまま踊り場の壁を蹴り、ひらりと宙に身を踊らせる。
「嘘……」
アンナは思わず呟いて、足を止めた。その目の前に、青年は着地する。階段を上がりきったところだ。そして彼は、アンナの肩を手で押した。
あ、と思う間もなく、アンナの体は踊り場に叩きつけられる。背中をしたたかに打ちつけて、アンナは呻いた。ゆっくりと階段を降りてくる青年が、千切れたロープを投げ捨てる。
仕掛けていた罠だ。ご丁寧に解除したということらしい。
「……あら。頑張って隠しておいたのに」立ち上がったアンナは壁際に追い詰められながら、ぎこちなく言った。「さては眠りの君さま。誕生日の贈り物を待ちきれないような、せっかちさんなのね?」
返事の代わりに、青年が短剣を閃かせる。こめかみぎりぎりに刃が突き立ち、灰色の髪が一房切れた。
アンナがひゅっと喉奥で息をのむなか、眼前の青年は短剣を壁から引き抜いた。眼差しは凍りついている。呼吸は躊躇いひとつなく落ち着いている。刃の切っ先が喉元に向けられる。純粋な殺気に、アンナは心臓が握りつぶされるような思いがする。
それでも彼女は、せいいっぱいの勇気を振り絞って明るく笑ってみせた。
「眠りの君さまは、花がお好きかしら」
かかとで、床を這わせていたもう一本のロープを引っ張った。青年がはっとしたように顔を上げた。頭上から数え切れないくらいの薄青の花弁が降り注ぐ。殺傷能力はないが、注意を引き付けるのには十分だ。
なによりも鎮静剤として使われる薬草は、香りだけで意識を酩酊させる。
アンナは息を止め、青年の体を両手で押した。距離は近いけれど、彼は動けなくなるはずだ。倍量どころか、大人三人分を気絶させる花の量なのだから。あとは薔薇十字を使って命じれば良い。少なくともここまでは計画通りで、ほっとする気持ちがあった。それがいけなかったのだ。
即効性の薬草をかぶったにも関わらず、青年はよろめいただけだった。半歩ほどしか離れていない距離で、短剣を握る手に再び力がこもるのが見える。目があって、アンナはぞっとした。
眼鏡越しでも鮮烈だ。
灰をまぶした炎の瞳には、手負いの獣のような殺意が宿っている。
殺される。なんの疑いもなく確信して、アンナは慌てて胸元の薔薇十字へ手を伸ばした。短剣が振りかざされるのが、やけにゆっくりに見える。
はやく、命令しなきゃ。殺さないで、って。死にたくない、って。はやく、はやく。
三度掴みそこね、四度目でやっと、アンナの震える指先が薔薇十字にかかる。さぁ、命令して。そう思った。なのに、この期におよんで迷う声がする。
彼を人間だと思うなら、命じるべきではないわ。
短剣が振り下ろされた。痛みはなく、薔薇よりも濃い赤が散る。
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