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【04】
アンナは目を覚ました。ざらざらとした石の天井を、青白い月明かりの帯が照らしている。冬の夜の光は、天井近くの小窓から差しているのだった。そして、吐く息は白い。
地下牢だわ。ぼんやりと思って、息を二回吐いたところで思い出した。自分は眠りの君に追い詰められていたのではなかったか。
飛び起きたアンナは、背中に走った鈍い痛みに体を丸めた。特大のため息が聞こえてきたのは、その後だ。
「すぐに動くやつがあるか。じっとしていろ」
「……眠りの君さま……?」
息をするのも苦しくて、涙目になりながらアンナは首を動かした。反対側の壁に背を預けるようにして、眠りの君こと青年が座っている。いつもの地下牢の彼で、アンナは少なからずほっとした。表情に乏しいけれど、まなざしはやわらかい。
「痛み止めは、君の右手だ。あいにくと水はないから、なんとか飲み込んでもらうしかないが」アンナが見とれていると、青年がゆっくりと目を閉じて言った。「それから毛布をきちんと使うこと。風邪なんて引きたくないだろう」
「あの」
「質問は、君が僕の言うとおりにしてから」
静かだけれど有無を言わさぬ口調に、アンナは渋々と頷いた。
苦い丸薬を砕いて飲んで、毛布を広げる。虫除けの薬草の小袋が転がり落ちて、アンナは眉をひそめた。
「この毛布、もしかして一度も使っていないの?」
「不要だったからな」
「でも、寒いから毛布を使えと、あなたはわたくしに言ったわ」
「僕にとっては寒くない……なら私も、という言い訳はするなよ。指先が震えているのは分かってるんだ」
「……そんなの、ずるい」
青年の返事はなく、アンナは仕方なく毛布に口元を埋めた。薬草の香りは嫌になるくらい新鮮で、本当に彼が使っていなかったのだと実感する。
役に立てなかったんだわ。アンナは意味もなく毛布のほつれを追いかけながら思う。
薬は使ってもらえたけれど、それだけ。そういえば、毎日のように運んでいた食事だって、ついぞ食べてもらえなかったのだ。いいえ、いいえ。それは気にすべきことじゃないわ。アンナは慌てて理由を探した。
ほら、わたくしの料理が美味しそうに見えなかっただけなのかもしれないし。
毛布だって、手触りが気に入らなかったのかもしれないし。
薬は飲んでもらえたでしょう。それに、彼を助けることだって。
だって、手がかりを見つけた。鍵である薔薇十字を手にいれた。花の罠はきちんと作動した。それから。それで。
「……わたくしは、あなたを助けられなかったのね」不意に虚しさが襲ってきて、アンナは毛布をぎゅっと握って声を震わせた。「そうじゃなきゃ、説明がつかないわ。わたくしが無傷でここにいる理由が、見つからない」
青年が少しだけ目を開ける。彼の右手の甲には血の滲む包帯が乱暴にまかれていて、アンナは耐えられずに涙を流した。
意識を失う寸前に見た赤は、やっぱり彼の血の色だったのだ。
「君が泣く理由なんてない」眠りの君は静かに言った。「利き手を潰せば、さすがに君を襲わなくなるだろうと思ったんだ。事実、そのとおりだった。だから、なんとかここまで連れ帰れたんだ。幸運なことに」
「そんなの、全然幸運じゃないわ……!」アンナは思わず声を大きくして、首から下げた薔薇十字を掴んだ。「あなたが傷つく必要なんて、どこにもなかったのよ! だって、ほら! わたくしは鍵を持っていたもの! あなたを止めることができたのよ!」
「その薔薇十字は、鍵じゃない」
アンナは唇を震わせた。寒風の音がひっそりと響くなか、青年は淡々と言葉を続ける。
「鍵は、僕に狩りを命じた人間が持っている。だから僕は従っているんだ。君の婚約者に」
「……嘘よ」アンナは冷たくなった薔薇十字を握りしめて、首を横に振った。「だって、これは日記の中に隠してあったのよ」
「日記なんて、そんな得体の知れないもの、」
「アンナ・ビルツの日記よ! あなたの大切な人の持ち物を、得体の知れないなんて言わないで!」
青年が口を閉じた。灰がかった炎の目に少なからず驚きの色が混じっていて、アンナはぐずぐずと鼻をすすりながら笑った。悲しくて、だから笑うしかないなんて、知りたくなかったけれど、そうするしかない。
「馬鹿にしないで。初めて会った時、あなたは迷いなく、わたくしの名前を言い当てたじゃない……用心深いアンナ・ビルツは、革命の前も後も、写真にほとんど映らなかったのよ……親しくない人間が、名前を言い当てられるわけがないわ……」
「……君は、最初から気づいていたのか」
「そうよ。分かってたわ。でも、わたくしは出来損ないなの。だから、それ以上のことなんて分からないの。あなたにとって何が最善なのかも、あなたを助けるためにどうすればいいのかも、分からない。だからこそ、薔薇十字が鍵であったらいいって願ってた。もしそうなら、わたくしがあなたを助けることができるから。わたくしにもできることがあるって、思えたから。何もかもできすぎだって、疑わなかったわけじゃない。それでも、信じたかったのよ」
一息の間に言い切って、アンナは震える喉で冷たい空気を飲み込んだ。涙を乱暴にぬぐって、笑ったまま青年を見つめる。
「馬鹿みたいでしょう。信じたいと思うことは、信じられないと思うことと同じなのにね」
言いたいことを全て言ってしまえば、後には何も残らなかった。
アンナはその場に座り込んで、毛布のなかで身震いする。寒いし、頭が痛い。背中だって。顔がほんの少しかゆいのは、涙が乾き始めているせいだ。毛布でこすれば、がさがさの肌触りにまた涙がこぼれた。
どうりで、眠りの君さまも使わなかったはずよ。あぁまったく、どうしてこんな簡単なこともできないのかしら。みっともない。アンナ・ビルツならば、きっとこんな醜態は見せなかったはず。
じゃあ、わたくしは誰なの。
アンナはぎゅっと唇の裏を噛んだ。薔薇十字から手を離す。十字架の重みに首が引っ張られた。そのまま自分の首が落ちてしまえばいいのにとさえ、思った。
「……昔話を、しようか」
アンナはのろのろと顔を上げた。美しい人形のような、整った顔立ちの青年を見つめて尋ねる。
「昔話……?」
「そうだ。夜は長いから、ちょうどいい」彼はゆっくりと態勢を崩して続けた。「〈王狼〉を殺した男の話だ」
ひやりと冷たいものが心臓に触れた。アンナは息を詰める。これは、彼の話だわ。
三年前、アンナ・ビルツは当時の王を倒すために革命を起こした。そう言って、青年はゆっくりと話し始める。
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