KHM153 / 序章 灰雪と銀狼のエピローグ

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 戸惑った様子の青年の目の前で、アンナは毛布を床に落とした。服を着ているのに、素肌をさらしているかのような気分になった。寒いのに、顔が熱い。あまりにも自分が恥知らずで、また涙がこぼれる。  最低だ。こんなことをしている場合じゃない。彼は怪我をしていて、彼の狩りを止める方法だって見つかってない。  最低だ。こんなことをする資格もない。彼の過去をめちゃくちゃにしたのは自分で、彼がうまく笑えないのもそのせいだ。  最低だ。だって、自分は彼のことを覚えていなくて。だって、自分はアンナ・ビルツみたいに頭も良くなくて。  だって。でも、それでも。 「あなたのことが、好きなの」アンナはたどたどしく言葉を紡いだ。「好きだわ。恋をしているの。あなたに。地下牢ではじめてあなたと会った、あの時からずっとそうだった」  青年が眉をひそめた。 「……気軽に、そんな言葉を使うべきじゃない」 「どうして。わたくしは本気よ」 「僕は人殺しだ」 「あなたがそうなる原因を作ったのは、わたくしだわ」 「それは今の君のせいじゃ、」  アンナは身をかがめて、青年と唇を重ねた。ほんの一瞬だけだが、青年が目を丸くする。そんな彼が可愛いと思ったし、そんな方法でしか彼を黙らせることができない自分が、アンナはますます嫌いになった。  それでもやっぱり彼に好いてもらいたくて、精一杯可愛らしく見えるように笑ってみる。 「今のわたくしと、昔のわたくしが違うと、あなたは信じてくれるのでしょう。だから、こうやって、わたくしを励ましてくれたのだわ」アンナは青年の服の裾をぎゅっと握る。「それと同じことよ。わたくしは、今のあなたを信じてる。だからあなたは、今のあなたを信じて。そうやって、今のわたくしとあなたで、恋をしましょう?」  灰をまぶした炎の瞳がかすかに揺れた。間違いなく、自分は彼を傷つけたのだ。そういう目だった。  ごめんなさい、とアンナは思う。優しさにつけ込んで、ごめんなさい。あなたの愛したアンナ・ビルツでなくて、ごめんなさい。謝罪の言葉はいくつも思い浮かぶのに、あなたを逃したくないという理由だけで、口に出して謝ることもない。そんな卑怯な女で、ごめんなさい。  身勝手な涙が頬を伝った。それでも湿っぽい女だと思われたくなかったから、アンナはなんとか笑顔を保ってみせた。同情を引こうとしているようで、また自分が嫌いになった。それでも効果はあった。  青年はゆっくりと目を閉じて、肩の力を抜くようにそっと笑った。アンナの何もかもを見透かして、そのうえで見逃してくれた。そんなふうだった。 「君は、いつだって予想外だ」 「だって、恋は突然だもの」 「それにしたって急すぎるという話をしてるんだ、僕は……もういいから、毛布を羽織ってくれ。君の気持ちは十分に伝わったから」  観念したような声音に嫌悪の色はない。それに心の底からほっとして、アンナは頷いた。  足元の毛布を取り上げて彼から離れようとするが、手首を掴まれる。なにかしら、と思ったときには遅かった。ぐいと強い力で引っ張られ、アンナは青年の胸元に転がり込む。  暖かい体温が頬に触れた。眠りの君さまのだわ。何故か冷静に思って、次の瞬間にかっと顔が熱くなった。 「な、は、え……!?」 「仕返しだ」 「しっ、」  仕返しって、と言い切る前に、また口づけをする。今度は青年からだった。さっきと同じように一瞬で離れる。  びっくりしすぎて、涙が引っ込む。アンナはぱちぱちと目を瞬かせた。目と鼻の先では、青年が何かをごまかすように口元を手でおおって目をそらしている。 「……眠りの君さま。もしかして、照れてらっしゃる?」 「……そんなはずがないだろう」 「でも」 「これ以上喋るな」  いくぶん早口な抗議とともに、毛布ごと抱き寄せられた。それがなんとも不器用で、アンナはふにゃりと笑ってしまう。 「可愛いわ。眠りの君さまったら、すっごく可愛い」 「おしゃべりな口を閉じろと、僕は言ってるんだが?」 「んふふ。いやよ。だって、言葉にしないと何も伝わらないもの。ねえ、眠りの君さま。こうやって、そばにおいてくれるということは、わたくしを花嫁にしてくださるってことよね?」 「僕の好みは、おしとやかで物静かな令嬢だ」 「まあ! それって、わたくしのことじゃない!」 「罠を仕掛けるような人間を、おしとやかとは言わない」 「う……たしかに、牛三頭分を卒倒させるくらいの鎮静薬を仕込んだことは謝るけれど……」 「人を牛換算するな……」 「で、でも、花は綺麗だったでしょう?」 「……それは、まあ」 「よかった! あの花はね、夏に()んだものを乾燥させたの。この屋敷に裏庭(バックガーデン)があるのはご存知? 毎年、いろいろな花が咲いて本当に綺麗なのよ。わたくしが一番好きなのは野生薔薇(オールドローズ)なのだけれどね、早いものなら春には咲くわ。この冬が終わったら、一緒に見に行きましょう?」 「そうだな」青年はぶっきらぼうに言ったあと、ちらとアンナのほうを見やって、少しだけ口調を和らげた。「それがいい。君と見る花園なら、きっと退屈はしないだろう」  アンナは笑顔で何度も頷いた。続きの言葉はでてこない。でてくるはずがない。  罪悪感がある。明日への不安がある。この関係が許されたばかりなのに、早くも破綻してしまうことを恐れている。  それでも、こうやって触れあっているぬくもりは本物だ。血と塗り薬と冬の空気の香り。間近で感じる息遣い。彼を好きだと思う気持ち。なにもかもが、真実だ。  アンナはそうっと息を吐いて、言い聞かせるように呟く。 「幸せだわ。やっぱりわたくしは世界に愛されているのね」 「……どうしてそう思う」 「だってこうして、あなたに会えたのですもの」  微睡(まどろ)みに身を任せながら、アンナは目を閉じた。この夜が終わらなければいいと思う。  夜明けを望まない冬は、生まれて初めてのことだった。
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