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「おいおい、そんなに怯えてどうしたんだ。我が妻よ」メレトスは――アンナの婚約者は、穏やかで寛容な、けれど品のない笑みを浮かべて見せる。「まさか不貞の現場を押さえられるとは思ってもみなかったか?」
「どうして、ここにいらっしゃるの。冬はまだ終わってないはずよ」
アンナが硬い声で問いかければ、メレトスが笑みを消した。狩人の男に目配せする。
狩人が牢に押し入り、アンナの腕を掴んで引きずり出した。そのまま地面に投げ捨てられ、アンナはメレトスの足元に倒れ込む。
険しい顔をした眠りの君が立ち上がったのが見えた。
「アンナ……!」
「犬は黙っていろ」
メレトスは、三つの銀の輪を組み合わせた飾りを突き出した。地下牢の青年は金縛りにあったように、体をこわばらせる。
〈王狼〉の鍵だわ。冷たい恐怖心とともに思ったところで、アンナは後頭部を強く踏みつけられ、地面に額をつけざるをえなくなった。
「良き妻は、夫の質問に正しく答えるものだ。なあ、そうだろうが。アンナ・ビルツ」
「……あなたは婚約者であって、まだ夫じゃないわ……っ……」
「あぁ俺は悲しいよ」アンナをさらに蹴りつけたメレトスは、大仰にため息をついた。「お前が血濡れの革命家となろうとも、お前が記憶喪失になろうとも、見捨てずに世話をし続けてやったというのに。なぁ、かつての革命家殿。これは俺からの愛の試練だったんだぞ。君がまともな神経をしているのなら、恩のある俺に従って、他の男に股を開くようなことはしないはずだと、信じていたのさ。それがどうだ。年頃の顔だけはいい犬と一緒になった途端、獣のように番おうとする」
「そんなこと……してない……」
「躾が必要だな」
鞭で打たれた時の痛みを思い出して、アンナは思わず顔を上げた。ひどく情けない顔をしていたことだろう。メレトスがにったりと目を細める。
「安心することだ、我が妻。躾は家畜にするものだ。そしてお前に不貞を働いた犬がちょうどそこにいる」
「や……めて……」
血の気が引く。アンナは思わずメレトスにすがりついた。
「駄目……眠りの君さまに暴力を振るわないで……」
「眠りの君ぃ? 犬なんぞにまた、たいそう夢見がちな名前をつけるじゃないか。冷酷な革命家ともあろう君が!」
「犬なんかじゃない! 彼は人間よ!」
「っはは! こんな飾り一つで命令を聞くんだ。殺しだってためらわない。それこそ、人間ではなく獣の心を持っている証だろうに!」
「あなたがそうさせているだけでしょう!」
「なるほどなるほど! そうさせているだけ、か!」メレトスは三輪の飾りをアンナの眼前に垂らし、猫なで声で言った。「なあ、これが欲しいか? 我が妻よ?」
アンナは石床をひっかくようにして手を握りしめた。そんなの、答えはわかりきっている。
「……っ、ほしいわ」
「あの犬に仕置もしてほしくないと」
「そう、よ」メレトスの目に試すような光が宿り、アンナは唇を噛んでから頭を下げた。「お願い、します……眠りの君さまに手を出さないで。あなた……っ、」
メレトスの右足がアンナを蹴り飛ばした。擦りむけた頬がじんと痛む。
「行儀がなってないなあ、アンナ・ビルツ! 靴を舐めて懇願するくらいの気概を見せたらどうだ?」
面白がるような声に体が震えた。それでも、まだ大丈夫と言い聞かせた。
震える腕に力をこめて、アンナはよろよろと体を起こす。眠りの君さまに暴力をふるわれるのに比べれば、こんなの、なんてことない。彼の右手の傷に比べれば、痛いうちにはいらない。
アンナは身を投げ出すようにして、メレトスの足元にひれ伏した。革靴に両手を添えて、言われたとおりに舐めてみせる。土と磨き油の、吐き気がするほど冷たい味だった。こんなわたくしを、眠りの君さまは嫌いになってしまわないかしら。いっそう自分が恥ずかしくなって、顔を上げることができない。そこで髪の毛を掴まれた。
アンナは痛みこらえる。目と鼻の先で、メレトスが興奮したように目をぎらつかせていた。
「気高き血濡れの革命家が、よくもまあ、犬ごときにここまで出来るものだ。俺は心打たれたよ、アンナ・ビルツ。だから、愛の試練はこれで最後にしてやろう――眼鏡を外して、狩人の男を見ろ。それができたら、鍵はくれてやる」
アンナは目を見開いた。息が止まる。
「待て」という狩人の焦ったような声が聞こえた。
「そんな話、聞いてないぞ!」
「そうだとも。可愛らしい妻のおねだりに答えて、今考えたのだからな」メレトスは面倒くさそうに言った。「だが、お前にとっても良い機会じゃないか。この女は丸腰だ。逃げ道もない。今なら確実に殺せるし、殺せずとも、仮にお前が生き残れたのなら、お前の家族が遊んで暮らせるだけの金をやろう」
「っ、駄目……! だまされないで……っ!」
眼鏡を奪おうとするメレトスの指先をつかんで、アンナは必死の思いで見つめた。
「わたくしの目は魔女を殺す。例外なくよ。仮になんてありえないの。だからお願い、あなた。他のことなら何でもするから、これだけはやめて」
「そうか。それで?」
「それで、って」
アンナは言葉を失った。人が死ぬのだ。それ以上の理由なんて必要ないはずだ。
なのに、どうして目の前の男は笑っているのだろう。まるで自分は関係ないと言わんばかりに笑えるのだろう。アンナは体を震わせた。寒さからではなく、底知れない恐怖からだった。
メレトスが満足そうに目を細める。
「あぁ、気高きかつての革命家よ。お前のそういう顔が見たかったんだ、俺は。いい顔だ。実に実に、いい顔だ」
「……や、めて……」
「なに、心配はいらない。お前は革命で何人も殺した。魔女もかつては誰かを殺した人間だ。いまさら一人殺したところで、お前らの罪の重さは変わらんだろうさ」
「……っ、い、や……!」
「さぁ、罪を暴け。アンナ・ビルツ」
眼鏡を奪われ、体を突き放された。アンナは悲鳴をあげて目を隠そうとした。あぁけれど、なんてことだろう。意を決したような狩人と目があった。あってしまった。
視界に景色が流れ込んでくる。アンナの目の前に広がるのは、もはや地下牢ではない。
暗い森だ。森の中を駆けて、アンナが――いいや、狩人の男が、女の背中を追っている。
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