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「……女を殺したのね。なんの罪もない女を」
胸をかきむしりたくなるような悲鳴が唐突にやみ、■■は異様な空気を肌で感じた。
牢屋の外では、目を見開いた狩人が蒼白な顔で立ち尽くしている。アンナは泣いていた。けれど彼女の薄青の瞳は凍りついたように冷たく、狩人を逃さないと言わんばかりに逸らされることもない。
それはまさしく、アンナ・ビルツの目だ。
「あなたは、自分が生きるために彼女を殺した。自分が殺されるかもしれない恐怖で彼女を殺した」アンナは低い声で言った。「でも、ね。考えられなかったの? 彼女だって同じように生きたかったのかもしれないって」
狩人の男が後ずさった。
「……見、るな」
「知ってたんでしょう。彼女に子供がいること。彼女が死ねば、子供が帰る場所を失うこと。あぁそれに、そうだわ。あの子どもたちは、あなたの子供と同い年くらいだった」
「っ、俺は、生きたかったんだ! 生きるためにはそうするしかなかった! それしか考えられなかった!」
「嘘よ。それ以外の方法だってあったはずだわ。あなたは革命軍側に抜ける逃げ道を知っていた。直前まで、彼女にそれを教えるべきか迷っていた。でも教えなかった。教えずに殺した。自分が死ぬかもしれないと恐れたから。そうならない可能性もあったはずなのに」
「違う、俺は」
「あなたは」
アンナはあえぐように呼吸をして、ゆらりと指先を男に向けた。
「女を殺したのよ。自分勝手な理由で。だからこそ、『深緑の慟哭』という罪名がふさわしい」
「違う!」
男が悲鳴のような声を上げると同時、周囲に暗緑の光が散って、いくつもの猟銃が現れた。魔女の力だった。
何が面白いのか、メレトスは笑っている。アンナはふっと力が抜けたように立ち尽くした。罪を追求する酷薄な光は瞳から消え失せて、ただただ両手で顔をおおった少女が泣き崩れる。
「……ごめんなさい」
全身の血が沸騰して、次の瞬間には冷たくなって逆流した。あえて詳しく言うなら、そんな感じだ。短い言葉で言うなら激情で、途方もない怒りで、彼女が死んでしまうという焦りだった。
■■は牢から飛び出した。メレトスはぎょっとしたような顔をしたが、知恵だけは回る。銀の三つ輪を絡めた鍵を突き出す。それだけで、冷や汗が吹き出して足が鈍くなる。
■■は、彼女を殺さねばならない。
いいや、違う。
■■は右手の傷を左手で掴んで爪を立てた。鮮血と激痛が声なき命令をつかの間遠ざける。覆いかぶさるようにして、彼はアンナを地面に引き倒した。肩の傷に銃弾の一発が当たったが、これも致命傷ではない。
追撃はすぐにこなかった。視界の端では地面に光が散っていたから、きっと終わりではないはずだ。次の銃の準備でもしているのか。都合がいい。
■■はアンナの肩を無理やりつかんで、向かいあった。
「っ、駄目!」アンナは怯えたように身をすくませて、目を両腕で覆い隠した。「見ないで! わたくしは、」
「駄目じゃない」
細い手首を握って、祈るように額をつけた。
「僕を見ろ。アンナ」
「いや……いやよ……そんなことしたら、眠りの君さまが死んじゃう……!」
「死なない」
「嘘、」
「死なない!」
アンナの悲痛な声を強い口調で遮った。少女の体がこわばる。恐怖だ。自分は彼女を恐怖でねじ伏せようとしている。これじゃあ婚約者と変わらない。思わぬ皮肉に笑ってしまう。それでも彼女の手をゆっくりと引き剥がした。助けるためには、そうするしかない。
「今から君に教えるのは、僕の名前であり、罪の名前だ」涙をはった薄青の目に、■■は誓う。「それでもどうか、呼んでくれ。僕は壊れない。殺されない。約束する。君のそばに帰ってくる」
美しい泉の青を見つめ、呆然とする彼女へ■■は懇願するように微笑んで、名前を告げる。今の彼女は、きっとそういう顔に弱いだろうと思ったからだ。打算まみれの己に呆れたが、果たしてそのとおりだった。
空元気が得意で、寂しがりで、誰かを見捨てることのできない心優しい彼女は、喉を震わせて■■を呼ぶ。
『〈暗夜の銀狼〉』
二人の間で光が弾けた。その光を迷いなく掴んで、■■は――ルーは振り向きざまに腕を振りあげる。
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