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あのとき命令していたら、彼は出られたのかしらと、アンナは考える。
月のない夜を迎えた、ビルツ邸の廊下だった。青黒い冬の闇のなかに、人の姿はない。眼鏡を外してそれを確認したアンナは、柱の陰で寒さに身震いする。動きやすいように着替えた男物のシャツとズボンのなかで、体を縮こまらせた。
結局、眠りの君が牢から出ることはなかった。あれきり本当に、何も言わなくなってしまったからだ。そしてアンナが、どうしても彼に命令できなかったから。
運悪く今日は冷え込んでいて、廊下でさえ寒い。きっとあの地下牢は凍えるほどだろう。やっぱり、無理矢理にでも彼を連れ出すべきだったかしら。ちょっとばかり弱気になりかけて、アンナはぶんぶんと首を横に振った。
だからって、命令は良くないわ。わたくしは彼と、主従になりたいのではないのだもの。
代わりに、なにか温かいものを彼に届けましょう。そのためにも、今夜も生き残らなくては。アンナが小さな決意を新たにしたところで、足音が聞こえる。
白い指先をきゅっと握り込み、アンナは眼鏡をかけなおした。心の中だけで三つ数えて、廊下へ飛び出す。
間髪いれずに銃声が響いた。一発目は偶然外れた。二発目の前に、枯れた鉢植えの観葉植物を引き倒した。銃弾が陶器を砕く音を聞きながら、アンナは一階に通じる階段にたどり着いた。
手すりを背に振り返る。
男が銃をかまえている。ぼろぼろの狩人の服に、目だけが飢えた獣のようにぎらついていた。垢まみれの削げた頬を動かして、男がうめく。
「いい加減に死んでくれ」
「いいえ」アンナは慎重に眼鏡をずらしながら言った。「わたくしは死にたくないの」
男の猟銃だけを見て、アンナは呟く。
『深緑の慟哭』
猟銃が破裂し、深緑の光を散らして消えた。驚きはない。
男の武器は彼の魔女としての力そのもので、アンナの目は魔女を殺すものなのだから。
男の悪態に背を向けて、アンナは踊り場から身を投じた。二階から一階までの高さはさほどないし、飛び降りも初めてではなかった。両足ですりきれた絨毯を踏んで着地する。じんと痺れるような痛みに呼吸一つぶんだけ耐えて、アンナはよろよろと客間に向かった。
ソファの陰に身を潜める。冬の夜、狩りの時間を迎えたビルツ邸でアンナができることは多くはない。逃げること、身をひそめること、そして狩人の男を傷つけないようにして武器を消すこと。日が昇れば狩りの時間は終わりで、穏やかな屋敷の時間が戻ってくる。だからそれまで耐えればいい。
そういう遊戯なのだからな、と薄ら笑いを浮かべて言ったのは、アンナの婚約者だった。貴族たちの冬の暇つぶしさ。お前だって、革命の前は興じていたんじゃないか。血濡れの革命家。裏切り者の王女。なぁ、アンナ・ビルツ。そうだろう?
憂鬱になりそうになって、アンナはかじかんだ指先を強くこする。駄目よ、楽しいことを考えて、と言い聞かせた。
いつもならば決まって、屋敷の裏庭を思い浮かべるところだ。それは春の柔らかな土にまく花の種であり、夏の光を弾いて輝く東屋の新緑であり、秋空に舞う野生薔薇野生薔薇の花びらでもあった。
けれど今日は違う。
目を閉じた途端に、眠りの君の端正な面立ちが浮かんで、アンナはにやけそうになる頬の内側をきゅっと噛んだ。やっぱり彼はかっこいい。
暁間近の空を思わせる黒髪も、どこか物憂げな横顔も、灰をまぶした炎の色の瞳も、どこを切り取っても惚れ惚れするほど美しくて、少し寂しげで。胸がぎゅっと苦しくて、でもじんわりと暖かくなる。
間違いない。これはきっと初恋で、一目惚れで、愛というものなのだ。
そうやって甘い暖かさを噛み締めたところで、アンナは窓の外が白み始めている事に気づいた。ほっと胸をなでおろす。
狩りの時間は終わった。じきに、ビルツ邸の穏やかな朝が始まるだろう。
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