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「っ、ぁ、ぐ……っ」
無造作に伸びてきた血まみれの手に、アンナは喉元を掴まれた。慌てて引き離そうとするが、指先に震えと冷たさを感じるばかりで、少しだって手がかからない。ぎりぎりと空気を締め出されて、視界がちかちかと瞬く。
そう、でも、震えだ。
震えてるのは、彼の方だ。
「……っ……」
胸が潰れるような苦しさがあって、アンナは顔を歪めた。命令だ。アンナを殺せという〈王狼〉の命令が彼を縛っている。それを命じた男も、鍵も、ここにはないのに。
ねぇ、でも落ち着いて考えてみるべきだわ。アンナと同じ声をした、冷たい理性がささやいた。命令が彼を縛っているのは事実でしょう。彼を助けるべきというのも正しい。けれど、彼を苦しめているのは、他ならぬわたくしだわ。
殺したくないのに、殺そうとする。だから彼は苦しんでいるのよ。わたくしが生きようと見苦しく足掻くから、なおのこと。命令に従えたほうがずっと楽なはずなのに。
だから無駄な抵抗なんかせずに、わたくしが今ここで死んでしまったほうがいい。彼にとっても、魔女にとっても、この国にとっても、きっときっと、それが最良の選択だわ。
ねぇ、わかってるでしょう。その結論に至ったから、わたくしはあの冬の日、命を絶とうとしたんでしょう。
ねぇ。
「……や……ぁ……」
アンナはぎゅっと目をつぶった。いや、と心の中で繰り返す。何度も何度も繰り返して、冷たい声を追い払う。
わかっている。彼は苦しんでいて、一番手っ取り早い解決方法は自分が殺されてあげることだ。そんなこと、わかっている。でも今は。今だけは、死にたくない。彼ともう少しだけ一緒にいたい。
だって、庭を見る約束をした。恋をする約束をした。帰ってくると約束した。だから彼は、自分を守ってくれた。
ならどんな方法であれ、今度は自分が彼を守るべきだ。
「っ、……命じ、ます……」
アンナは無意識のうちに、薔薇十字をつかんだ。やけに熱いそれを苦労して掲げる。
「わたくし、は……っ……これから、悪い、魔女になる……」
彼が自分にくれたのは、彼の名前と罪だった。ならば自分は、彼に理由と命令を与える。
彼が今、アンナ・ビルツを殺さないですむ理由を。
彼がいつかアンナ・ビルツを殺してしまっても、心を痛める必要がないように命令を。
「多くの人を殺す、悪い魔女に……っ」
それは事実だ。アンナの目は魔女を狂い殺す。狩人以外の今年の魔女は、アンナが見たから全員死んだ。そして間違いなく、次もそうだ。だから。
「だから……っ、しかるべき時が来たら……っ、わたくしが誰かを殺してしまいそうになったのなら……! わたくしを殺しなさい……! これは命令よ! ルー・アージェント!」
声は届いただろうか。きっと届いたはずだ。
ルーの手の力が弱まった。アンナは咳き込みながらも立とうとしたが、彼が青い顔をして倒れかかってくる。
二人して、ずるずると座り込んだ。互いに体が震えていた。顔は見えなかったが、彼は泣いているんじゃないかと思った。だからアンナは、彼を抱きしめた。
「大丈夫よ」砕け散ってしまいそうな勇気をなんとかかき集めて、アンナは泣きながら言った。「絶対に、大丈夫。わたくしたちは幸せになれるわ。きっと……きっとよ」
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